2020-07-01から1ヶ月間の記事一覧
二十代の放送作家の頃。東海大学落研の一つ先輩、味彩(あじさい)さんから電話があった。この方は女性で、某放送局でタイムキーパーをやっていた。 この人から電話があるのは珍しい。卒業以来初めてだったのではないだろうか? 私は自宅で仕事の途中だった…
私は東海大学落語研究部時代。ほとんどバイトをしたことがない。父親は静岡県磐田市の専売公社の工場勤務だったので極普通の家庭である。 地方の社長の息子・娘が多い東海大生としては貧乏な方だった。 しかし、落研生はあまりアルバイトをしない。三年まで…
私が名古屋・中京テレビの音楽番組「5時SATマガジン」を構成している時。土曜の夕方、生本番を終えて制作の部屋に居ると…。 「作家の小林さん、電話です」 「えっ!」東京から名古屋へ仕事に来ている私に電話? 今日ここにいることを知っているのは事務…
私が新人放送作家だった頃。事務所が乃木坂だったので六本木界隈をよく歩いていた。すると、六本木の街でよくすれ違う先輩放送作家がいた。 この方は、六本木にある別の事務所所属の作家なのだが、法政大学落語研究会のOBということもあり、面識だけはあっ…
私が東海大学落研一年の時。三年に頭下位亭芸馬(とうかいてい げいば)さんと言う先輩が居た。この方は、長野県の佐久市出身でとにかく真面目。 部会が終わってもみんなと飲みに行くことはなく、一人原付バイクで学校近くの下宿に帰って行く。賄いつきの下…
私が新人作家の頃。某ラジオ局のディレクターTさんが私に声をかけた。 「小林君、今度、新人のオーディションテープとるから、台本書いてよ!」 「ありがとうございます」 Tさんは若手の有望株で局内でも一目置かれている人物。私は、この方に声をかけられ…
私が新人放送作家の頃。昭和60年頃だと思う。この頃、主な仕事はギャラ無しのものばかり。収入は師匠Мからの小遣いだった(事務所的には給料と呼んでいた)。 そんなある日。М先生が言った。「ラジオの小ネタ集めの仕事やってこい。5000円くれるぞ!」…
私は昭和55年。東海大学落語研究部に入った。クラブでは先輩達とご飯を食べることが多かった。ある日、先輩が…。 「真田苑、行くぞ!」と言った。 「何ですか?」 「知らないのか? 真田苑を知らないと落研じゃねえぞ!」 真田苑とは大学近くの中華料理店…
東海大学落研OB・脚本家の穴吹一郎君のエピソードを思い出したので、もう、一つ。 彼がまだ無名の劇団主催の頃。小田急線・経堂駅近くの居酒屋さんで、春風亭昇太さんと私で飲むことに成った。 「穴吹君も呼ぼうか!」 昇太さんが電話すると穴吹君は芝居の…
放送作家として、仕事が入って来て生活が安定した頃。三十年ぐらい前のことだ。知り合いの事務所の先輩作家・井上さんと会った。 別の仕事で来ていたのだが、たまたま、井上さんも来ていたようだ。 私は初対面だったが、その第一声は 「井上です。僕は春風亭…
ウルトラアイ 世田谷に住んでいる時。小田急線・千歳船橋駅を降りると、春風亭柳好師匠が居た。 「ひゃ~!はっは~! 小林さん、一軒行きませんか?」 柳好さんの行きつけの店は、いつも、何かが起きる。私に断る理由は無い。今日は、いったい何があるのだ…
小田急線・経堂駅近くに「さばの湯」と言う唯一無二の居酒屋がある。ここは、私の知り合い、コメディーライターの須田泰成さんが経営する店だ。 ここは、コント、落語、演劇、音楽ライブと、あらゆるエンタメが観られる不思議な居酒屋である。それも、普通は…
たしか昭和56年。私が東海大学落語研究部の2年生の時。大阪の落語家による話題の会があった。桂三枝師匠(現・文枝)を筆頭に、月亭八方、笑福亭福笑、桂文珍、笑福亭仁智、桂べかこ(現・南光)、桂小春、笑福亭鶴志、(敬称略)などが参加していた。こ…
生活全てが異次元の女性放送作家Aさんと、小田急線の経堂駅近くにあった「あさひや」という軍隊帰りのお爺さんがやっている小さな店で待ち合わせしたことがある。 私は少し遅刻してしまった。お店に入ると、カウンターにAさんが居るのだが…。隣にロマンス…
30年位前。名古屋の音楽番組に新しい放送作家が入って来た。Aさんと言う女性作家なのだが、20代にして大きな番組を何本も担当するやり手である。 この人はいつも不思議な運(波乱万丈な運)を持っている。話を聞くと…。元々、作家になるつもりはなかっ…
私は昭和55年に東海大学落語研究部に入部した。その時、四年生に頭下位亭平頭(とうかいてい へいず)という先輩がいた。「頭」の字が入っているところをみると、頭下位亭獅子頭(ししがしら・現・柳家一九師匠)さんが付けた名前だと思われる。 平頭さん…
久本雅美のANN リスナープレゼント用のメンコ・未開封 新人放送作家の頃。六本木の事務所にいると商品先物の営業マンから電話がかかってきた。しつこく「話を聞いて下さい」と言うので、ヒマに任せて話を聞いてみた。 「是非、会って話がしたい」と言うの…
私が東海大学落語研究部に入部した昭和55年に、6年生だった頭下位亭のん太(放送作家・高橋先生)さんは、運動神経が良く、テニスやバドミントンをやると後輩は誰も勝てなかった。 先輩は運動神経をひけらかすことはなく、運動神経の無い私をバカすること…
追伸みたいなエピソードですが…。 その昔、ラジオで見習い作家をしている時。出演者の一人だった小倉久寛さんは、よく私の頭にヘッドロックしたり、コブラツイストをかけたりと可愛がってくれた。 その番組から、何年か後のことだが、私が地元の世田谷区経堂…
バルセロナ五輪があった年。有楽町の某ラジオ局で羽野晶紀さんの番組が始まった。当時、羽野さんは「大阪のキョンキョン」と言われる程の人気で、可愛いのに面白いという貴重な女優さんだった。タイトルは「羽野晶紀のいっしょうけんめいカタルーニャ」。月…
5時SAT Tシャツ 音楽の知識もなく、名古屋の音楽番組をやるとこになった私だが、ギャラ無しの状態は三年程続いた。局は頼んでいないのだから当たり前の話だが、私は複雑な気持ちだった。ただ、「やるからには手を抜かない。自分なりに能力一杯のことは…
ギャラ無し、音楽の知識ゼロで名古屋の音楽番組をやることになった私は、ディレクターに聞いてみた。 「音楽の知識ないんですけど、大丈夫ですかね?」 「やって覚えればいいよ! 音楽の部分は専門の人が書いてくれるから」 聞くと、音楽コーナーの司会は名…
私が放送作家の新人の頃。師匠のМが言った。 「来週から、名古屋行ってこい! ギャラは無しだ! 交通費とホテル代は局が出してくれる」 「えっ!」 当然、私に断る権利はない。しかし、当時の私は、この「ノーギャラの仕事」が嫌で仕方が無かった。М師匠から…
番組の収録で、3~4ヶ月ぶりに春風亭昇太さんと会った。収録が終わって帰りのエレベーターで一緒だったのだが…。 昇太「そっちは、コロナで仕事に影響あった?」 私「放送は休まないんで、そんなに変わりないんです」 昇太「そうか!」 そのまま、別れた。…
衝動買いの皮ジャン 昭和五十五年。私が東海大学落語研究部に入った時。六年生の先輩に頭下亭のん太(とうかいてい のんた)さんが居た。雑誌の「an.an」「non-no」が流行ったことから、「亜ん太」「のん太」という名前が誕生した様だ。 この先輩は、背が高…
元フォークダンスDE成子坂の桶田君は落語がダメな人だった。古典落語を聞こうとしても、どうしても眠くなってしまうというのだ。 彼にとっては名人の落語も人間国宝の落語もお経と変わらないのだ。これは、女子高生などがよく言うセリフである。やはり、天…