2020-08-01から1ヶ月間の記事一覧
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東海大落研OBの頭下位亭兵枝(27期・とうかいてい ひょうし)、こと、脚本家・穴吹一朗君がラジオにゲストとして登場することになりました。 8月30日(日)朝6時から生放送。「サンデーフリッカーズ」(JFN)。放送は民放FМの、青森、秋田、栃木、長野…
私が学生の頃。早稲田大学の落研(寄席演芸研究会)に、伊達家酔狂(だてや すいきょう)という上方落語のスターがいた。この人は、私の二年上で、東海大学で言えば頭下位亭切奴(とうかいてい きりど 現・春風亭昇太)さんと同期となる。 学生時代、直接面…
中学二年の頃だと思う。土曜日に母方のお婆ちゃんの家に遊びに行った時。テレビで映画「小さな恋のメロディ」を見た。 映画好きのオジサンが見ているのを親戚中でなんとなく見ていた。この映画は日本の封切からは五年程たっていたが、映画にうとい私には「初…
まだ私が二十代前半の新人放送作家の頃。ラジオで新作映画を紹介するコーナーを担当したことがある。 試写会を見て、その内容を紹介する原稿を書くのが仕事である。その作品の中には「ターミネーター」(一作目)や「コクーン」も有った。 「ターミネーター…
東海大学落語研究部の一つ後輩に、頭下位扇平(とうかいてい せんべい)君という、ある地方の優良企業の社長がいる。 二十年以上前のことだと思う。彼が有力なOBに頼んで、地元でイベントをやることになった。彼は商工会の青年部の会長を務めていた。 そこで…
昭和55年。私が落研1年の時。東海大学では文化祭以外にも有名アーティストの無料コンサートが企画されていた。 新入生歓迎の意味だと思うが、二号館の大教室でプロミュージシャンのライブが無料で開かれていたのだ。 1年の春。まだ、新人の山下久美子さん…
細々と放送作家を続ける私は、以前も書いたように、「自分で動く」より「誰かの導き」で仕事が入る。 二十年程前のことだが、東海大落研二年先輩の頭下位亭実志(とうかいてい じっし・現・ディレクター山崎)さんから電話があった。 「放送作家のインタビュ…
昭和55年~57年頃。東海大学落語研究部の部室には、いつも頭下位亭楽陳(とうかいてい らくちん)さんと言うOBが居た。 私より6年も先輩だが、当時は会社を辞めて毎日部室に来ていた。この楽陳さんは、とても頭が良く機転が利く。キャンプなどの仕切…
昔から「ところ変われば品かわる」と言う言葉があるが、新人放送作家は局による言葉の違いに悩まされる。 私が初めて赤坂のラジオ局で仕事した時。キューシートと呼ばれる進行表に、SS~と書かれている。新人の私が初めて見た記号だ。私は素直なので恥を承…
私が二十代後半の頃。某テレビ局で朝のニュース番組を担当していたことがある。この会議は空気が重く、若手の発言などは無言で黙殺される。 それを知っているので、若手のディレクターは提案をせず、上司とチーフ作家の発言を待っている状態だった。 チーフ…
私の放送作家の師匠Мは、業界人らしくハッタリや嘘が上手い。成功する為のノウハウらしいが、この方法は私には合わなかった。私はこの嘘に悩まされた。 ある日。ラジオのディレクターが私に言った。 「おや! 大先生! Yのコーナーの仕掛け人なんだって?」…
私が新人放送作家の頃。師匠のМから「六本木の料理屋へ来い」と連絡があった。事務所の近くなので、すぐに訪ねると…。 そこには、師匠と大阪の超大物放送作家Tが飲んで居た。TさんはМをヨイショしていて「大阪のナンバーワン作家の収入は東京だと300番…
小田急線の経堂駅周辺に住んでいる時。一流放送作家の私は、駅前の「千円カット」に通っていた。 私が順番待ちをしていると、今、座ったばかりの男が女性の美容師さんに話しかけた。 「美容師さん、芸能界って興味あるかな?」 「ええ! まあ!」 「僕、業界…
昭和58年。私が東海大学落語研究部の四年生の頃。一年生にボーイッシュな女の子が居た。名前は、頭下位亭矢鱈(とうかいてい やたら)。もう一人、芽っ鱈(めったら・漢字は不明)と言う名前も居て、対の名前だった。この手の対の名前は大抵片方がクラブを…
某半蔵門のラジオ局で「耳の穴」を担当している頃。「わらしべ長者」状態で仕事が繋がった私だが、このあたりから、周りがかってに色々な仕事をくれるようになって行く。 放送作家を始めて最初の三年は、これと言ったギャラの出る仕事がなかったので、「くれ…
ご祝儀袋 同学年の先輩作家Sさんのおかげで入ったFМ795の朝の番組は3~4年やったと思う(遡ってお読み下さい)。 その数年後。この795の番組のディレクターだったTさんから電話があった。 「小林君、東京FМで新番組が始まるんだけど、やってくれない」 …
昭和59~62年頃。私は見習い作家として某ラジオ局の番組に参加していた。その時、ある曜日を担当していたメイン作家にSさんが居た。 この人は、月~木の各担当作家の中では最年少。コント系の原稿に定評があり、本番前に書き始めて名作を次々と生み出し…
私の落研時代(東海大学)の青学の同期に、「秋風(亭号はうろ覚え)とんぼ」(通訳・学校の先生)さんと言う女性がいる。渋谷三大学落研OB飲み会をやった時、彼女が私に聞いた。 「黒舟! バカボン鬼塚って知ってる? 東海の落研なんでしょ?」 「えっ! …
入船亭扇辰さんが真打に成った時の出来事。 扇辰さんは國學院大學・落研のOBで、東海大・落研OBの私より二つ下の学年のシベリ家翌柳(しべりや よくりゅう)君だった。 この名前を付けたのは國學院五年生だった、往復亭びん太(おうふくてい びんた)さ…
昭和55年。私が東海大学落語研究部に入学した時。4年生に頭下位亭仏頭(とうかいてい ぶっとう)さんと言う先輩がいた。名前の通り仏像の様な大きな頭をした先輩だ。 この方は、東海落研の先輩としては少数派の「穏やかな優しい人」だった。 私が入部して、1…
(続きですので、前回を振り返ってお読みください) 1年後輩に、頭下位亭雷念(とうかていて らいねん)君という男が居た。同期に柳念(りゅうねん)君が居て、並ぶと「来年、留年」となる。柳念君は留年でなく中退してクラブを去った。 雷念君は私と同じ静…
昭和55年に入学した東海大学落語研究部の先輩は、やたらと頭が良かった。これは、勉強で言う頭の良さではなく、人間としての「地頭」の良さだ。 多分、落研対抗で山の中でサバイバル戦をやったら、我が部は東大にも勝ったのではないだろうか? 表現は分か…