私が学生の頃。早稲田大学の落研(寄席演芸研究会)に、伊達家酔狂(だてや すいきょう)という上方落語のスターがいた。この人は、私の二年上で、東海大学で言えば頭下位亭切奴(とうかいてい きりど 現・春風亭昇太)さんと同期となる。
学生時代、直接面識はないが、この方はテレビでよく見る凄い人。
当時、日本テレビの人気番組「お笑いスター誕生」に落語で勝ち抜いたただ一人の男である。
プロの漫才やコントに交じって、素人落語で勝ち抜くのは大変なことである。この番組では、現在の桂竹丸師匠(駒沢大・花駒)さんも勝ち抜いていたが、ネタは立ちの漫談だった。後のタージン(桃山学院)も、やはり漫談。
この酔狂さんの上方落語は綺麗で繊細。素人の面白い人と言うより、プロの芸に近い本格派だった。
日本テレビの特番「第四回全日本学生落語名人位決定戦」で「代書屋」を演じて名人(優勝)に輝いていた。
この第四回の大会に、東海大学から参加する者は居なかった。三年生が女性一人、二年生が私を含む男四人だったが、誰も怖くて予選に参加などできなかったのだ。
なにせ、ウケないやつらばかりだったからだ。
放送後、私は四年の切奴さんに怒られた。「負けてもいいから闘ってこい!」。
(「嗚呼!青春の大根梁山泊~東海大学・僕と落研の物語~」完全版・note版に記されている)
私が放送作家になって三十年程たった時。仲の良い放送作家・下村稔さんより電話があった。
「今度、高校の同級生と飲むんだけど、そいつの同僚が元・落研なんだって! 小林ちゃんも来ない?」
「僕の時代の人ですか?」
「早稲田の伊達家酔狂って名で「お笑いスタ誕」出てたって!」
完全に、あの酔狂さんである。私は「第五回の全日本学生落語名人位決定戦」に出た時、昨年の名人が「名人杯返還」に来ていて、その時、すれちがったが会話はしていない。憧れの目で見ていただけだ。初めて話せるのである。
酔狂さんは地味なオジサンになっていた。無口で真面目で、高座以外でははじけない性格のようだ。
初めは「昔の話はしたくないな~!」と言っていた様だが、飲んでいるうちに盛り上がり。二次会のカラオケで始発まで飲んでしまった。
聞くと、学生時代、プロになる気はまったくなく、テレビの制作会社に内定していたが、親に反対されて普通の会社員となったそうだ。
酔った酔狂さんはボソっと言った。「東海大って言えば、昇太さん、会いたいな~!」
私は酔いに任せて、携帯で昇太さんに電話して酔狂さんに渡した。酔狂さんは嬉しそうにニコニコして話していた。
どんな話をしていたかは分からないが、昇太さんは「何でお前といるの?」と驚いていた。
それから、二年程たったある日。先輩の放送作家・佐藤かんじ(初代・甘奈豆)さんが言った。
「この後、時間ある? 竹丸が昔の落研の仲間集めて飲んでるんだよ!」
「面白そうですね! 行きます!」
新宿・末広亭近くの地下のお店に入ると、竹丸さん、柳家一九さん、青学の三語笑(当時・ラジオ沖縄の社長)さん、フリー・アナの牧原俊幸(早稲田の月見亭うどん)さんが居た。牧原さんは伊達家酔狂さんの同期。
私は「牧原さん、この前、伊達家酔狂さんとお会いしました」と伝えた。
すると、牧原さんの隣に、地味なオジサンが居た。よく見ると酔狂さんだった。
居るのに私が気づくまで黙っていたのだ。
「あっ! 本人が居るんですね! すいません!」
私は恐縮してしまった。「もうすでにお爺さんでした」等と言わなくて良かった。
この日も、酔狂さんは自分では話さず、みんなのバカ話を嬉しそうに聞いていた。
酔狂さんが帰った後、昇太さんが合流したのでニアミスとなったが、飲み会は大いに盛り上がった。
OBになって、このメンバーと飲めるなんて夢の様だ。タイムマシンがあったら十九才の自分に教えてあげたいと思った。
「お前も、それなりのOBになれるよ! 頑張れ!」と言い残して、デロリアンで空に飛び立つ。そんな光景が浮かぶほど、泥酔していた。
竹丸師匠、素敵なセッティング、ありがとうございました。
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