同学年の先輩作家Sさんのおかげで入ったFМ795の朝の番組は3~4年やったと思う(遡ってお読み下さい)。
その数年後。この795の番組のディレクターだったTさんから電話があった。
「小林君、東京FМで新番組が始まるんだけど、やってくれない」
我々の仕事は人脈が繋がって「わらしべ長者」の様に展開して行くものなのだ。元々は某ラジオ局に出入りする作家Oのカバン持ちとしてついて行ったのが「ワラ」。
そこで「見習い作家」のバイトを貰い、そこで知り合った作家Sさんが795へと導いてくれた。さらに、そこから、半蔵門へと繋がったのだ。
東京FМの番組の内容を聞いて驚いた! 何と! 社運をかけた大きな番組「耳の穴」だった。
局のロビーには有名芸術家に頼んだ番組のキャラがアートとして展示。宣伝文句は「新しい放送局・イヤーステーション開局「耳の穴」」的なものだった。
夜の月~金の帯で音楽番組なのだが、この宣伝文句を勘違いしたお国のお偉いさんから「放送局を認可した憶えはない。違法だ!」と苦情が来たという。放送局と名乗る番組と聞いて、すぐに納得してくれたそうだ。
それだけ、大きな宣伝費をかけている番組だった。新聞にも大きな広告が出たと思う。この時の局の責任者Oさんは、JFNの初代社長となった人物である。
私は二日間を担当することになった。実は、この時のディレクターK(Tとは別人)が、春風亭一之輔師匠のFМラジオ「サンデーフリッカーズ」(JFN)の初代プロデューサーである。「耳の穴」から二十年以上たった、ある日「30歳前後の噺家で朝のラジオをやりたい」と言った人なのだ(遡ってお読み下さい)。
まさに「業界わらしべ長者」である。
「サンフリ」が始まった当初、一之輔さんは二つ目だった。その時、私が構成していた「落語者」(テレビ朝日)に二つ目で初めて出てもらった。これも、「わらしべ長者」の様に繋がった一つである。
さらに、huluで放送した若手が競う「三分落語」の司会も一之輔師匠にお願いした。これは、嫌がるところを無理やりコネでお願いした形となった。これは一之輔さんにとっては「わらしべ貧乏」だったのかも知れない。
時代は遡るが…。「耳の穴」も終わり、数年した頃。作家のSさんから電話があった。
「てっちゃん! 今度、有楽町のナイターオフやってよ!」(何故か私は「てっちゃん」と呼ばれるようになっていた)
ナイターオフとはプロ野球のナイター中継の無い秋から冬の半年間。夕方にやる番組である。
パーソナリティは、今はある事情で表には出なくなった、元黒塗りのミュージシャンで、司会、コント、でも活躍していたTさんである。
月~金の帯で五人の作家が集められた。チーフ作家はSさんである。
タイトルは「TМの60分ニッポン勝負!」だった。
会議でディレクターのNさんが言った。今回は、月~金を横に割って、作家さんには一つのコーナーを月~金で書いてもらうことにします。
これは、画期的な方法である。普通、月曜の担当なら作家はオープニングからエンディングまで通しで台本を製作する。
ところが、今回は同じコーナーを月~金で五本書くというのだ。
そこでNさんは「コントのコーナーは、やっぱり、Sさんにお願いしたいんですが…」
Sさんはコントの天才である。私もそれが良いと思っていた。すると、Sさんは、
「いや! 俺は去年、この枠でコント書いたから…。今回は小林のてっちゃんが良いんじゃないの!」
私「うううううお~! 嘘でしょう!」(心の声)
私「すいません! 毎週コント五本ですか~~?! 出来るかな~?」
S「いや~! 小林さんしかできないよ~!」
はまった。完全にSさんは今年のコントを回避する為に私を入れたのだ。
しかも、この番組は一度に月~金を収録するスタイル。私は一度に五本のコントを上げなくてはいけないのだ。
情報コーナーやクイズコーナーの担当作家はみんな「俺じゃなくてよかった~!」という顔をしている。
かと言って、今から断る訳にはいかない。
N「コントのコーナーは、毎週、テーマを決めてやりましょう」
私「おおおおお~! やめてくれ~!」(心の声)
Nさんは、もはや鬼である。
つまり、今週のテーマが「オリンピック」なら「オリンピック」で五本書かなくてはいけないのだ。毎週のテーマが夢に出てうなされる毎日となった。テーマは「冒険」「恋」「反乱」「夏祭り」「教師」「テーマパーク」など、かってに選ばれる。
私は会議の度にSさんにコントの設定を貰うことにした。
「Sさん、何かありませんか?」
「じゃあ、〇〇は? ××ってのも良いんじゃない! 落ちは▼でさー!」
Sさんの引き出しの多さは天才的で、聞くと、即答で次々と設定が出てくる。展開と落ちまで言ってくれるので、私は毎回、2~3本Sさんのアイディアを貰うことにした。
お陰で半年間。ほとんど書き直しは無かった。パーソナリティのTさんが最後の落ちだけ変えることが多かったが、大きなトラブルなく「セーフ!」何とかお役目をまっとうできた。
実はこの番組。評判が良くて、作家全員が「局長から金一封」のご祝儀を頂いた。局長は私が見習い作家の頃、伝説のプロデューサーだったМさんだった。
私は、このご祝儀袋を今も大切に保存している。
…続く。
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