放送業界のお話と落研と私的な思い出(瞳尻・黒舟)

「嗚呼!青春の大根梁山泊~東海大学・僕と落研の物語」スピンオフ・エッセイ。放送関係。業界のエピソードと近所の出来事

同じ学年の天才!

 昭和59~62年頃。私は見習い作家として某ラジオ局の番組に参加していた。その時、ある曜日を担当していたメイン作家にSさんが居た。

 

 この人は、月~木の各担当作家の中では最年少。コント系の原稿に定評があり、本番前に書き始めて名作を次々と生み出していた。すでに、大きなテレビ番組も担当している先生で「ドリフ・大爆笑!」「夕焼けニャンニャン」「だいじょうぶだあ!」など、超有名番組に参加していた。

 しかも、このSさん。私と同じ歳。学年で言う同級生なのだ。しかし、キャリアも実力も圧倒的に上。雲の上の存在だった。

 

 私はハガキを読んで、使えそうなものをスタッフに渡す程度の役割。放送台本を書くことはほとんどなかった。Sさんは筆が速く、猛スピードで全部仕上げてしまうのだ。

 情報を伝えるだけの告知原稿でも、何カ所かに遊び心ある書きまわしがあり、笑いを取ってしまうのだ。

 

 一度、Sさんが私の書いた原稿の設定を気に入ってくれて「後半書き直して放送に使っても良い?」と言ってくれたことがあった。

 直した台本をみると、後半どころか中盤から全然違う面白い展開になっていた。

 

 しかし、この原稿を見た、パーソナリティのМさんは「おっ! この字は…」と言った。書き出しが私の字だと気づいたのだ。

 設定は私のものだが、90%はSさんの書いたもの。内容は面白い筈である。

 

 生放送を聞いて驚いた! このコーナー始まって以来初めて、スタッフの笑いがほとんど無かった。ミキサーの方が『Sちゃんにしては、イマイチだったね!」

 正直なコメントだ。ミキサーさんは書き出しが私だということを知らない。

 

 しかし、90%がSさんの作品なのに何故ウケが薄かったのだろう?

 

 Sさんは、スタッフに「手書きの字まで面白い!」と言われている作家である。パーソナリティМさんの信頼も厚い。すでに、手書き文字までがブランド化しているのだ。

 冒頭が私の手書きでは「ブランド物」を頼んだのに「安物」が来たような感覚で、演技が乗らないのだ(当時ワープロは八十万円もする高級品)。

 

 私はそれ以来。Sさんの原稿を何本かコピーして研究することにした。まず、文字は原稿用紙のマス目一杯に四角く書く。生原稿はこれが読みやすい様だ。

 そして、言い回しなど、細かくマネすることにした。

 

 乃木坂の事務所で電話受けしている時も、この原稿を何回も読んで体に叩き込もうとしていた。まるで落語家の前座が最初の噺を稽古するようである。

 この原稿を机に置いたまま、私がお使いに行き、帰って来ると。師匠のМさんが事務所に来ていた。そして、コピー原稿を読んでいた。

 

 いつも厳しいМ先生はニコッと笑うと…。

 「小林! これ、面白いじゃないか! お前、才能あるかも知れないぞ!」

 「ええ…まあ!」

 私は嘘をついてしまった。この原稿がSさんのものだと伝えたら「お前と同じ歳だろう! 少しは見習え!」と言われるのが落ちだからだ。

 真面目な私だが、業界に侵され少しずるくなっていた。

 

 しかし、師匠のМは私の手書きの文字を何度も見ているのだが、何故気づかなかったのだろう? そこは、未だに疑問である。

 

 見習い作家を続けていた、ある日。Sさんが言った。

 「小林さん、今度、代々木のイベントの台本書くんだけど、一緒にやってくれない」

 「やります!」

 こんな話を断る訳がない。

 

 当時、某ラジオの系列会社が、毎年、代々木で「〇〇〇フェアー」という大きなイベントを開いていた。そこにラジオのステージがあって、ロックコンサートや素人のお笑い大会などを開催していたのだ。

 この時、新人バンドとして「米米クラブ」「バブルガムブラザーズ」等が出演していた。素人お笑いでは「明治大学大川興行」(後の大川興行)、女子大生時代の岡安由美子(後の女優)さんもお笑い集団として参加していた。

 

 台本はゲストの紹介、呼び込みや、ゲームの説明など。流れを書く進行台本だった。

 私が半分書くことに成り、局内の三階のロビーで二人並んで書いた記憶がある。何故家で書かなかったか不思議だが、私が一人で書くと書き直しがありそうで不安なので、一緒に書いたと思われる。

 

 書き終えると、Sさんは表紙に「構成・SS 小林哲也」と私の名前も連名で書いてくれた。見習い作家の私としては、この連名が嬉しかった。

 しかも、イベント台本はコピーのラジオ台本とは違い、テレビの様に製本されるのだ。これが、私の名前が初めて載った印刷台本となった。

 

 実は、このSさんは、私に色々な仕事を世話してくれた恩人である。

 数年後のFМ795開局直後。Sさんから連絡があった。

 「795の朝の番組やらないか」

 「やります」

 この一言で決まってしまった。

 

 話を聞きに浦和の局に出向くと、「出来れば月~金の帯のうち3日間やってくれないか」と言う話だった。

 サスガに朝の生を3日は出来ない。2日やって1日は私の事務所の後輩、斉藤君にやってもらうことにした(斉藤君についてはブログを遡って読んで下さい)。この番組の作家にSさんは入っていない。

 Sさん仕事が一杯だったので、全てを私に譲ったのだと思う。頭が下がる思いである。

 

 この朝の番組のパーソナリティはミュージシャンだった。私が担当した曜日は、椎名恵さん、平松愛理さんだった。

 

 椎名恵さんは「ヤヌスの鏡」のテーマや「ラブイズオール」で有名なミュージシャン。以来、飲み仲間となり、春風亭一之輔師匠のFМラジオ「サンデーフリッカーズ」(JFN)のゲストをお願いしたことがある。

 

 そして、平松愛理さんは……。そういうことである(ブログを遡ってお読みください)。

 

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