某半蔵門のラジオ局で「耳の穴」を担当している頃。「わらしべ長者」状態で仕事が繋がった私だが、このあたりから、周りがかってに色々な仕事をくれるようになって行く。
放送作家を始めて最初の三年は、これと言ったギャラの出る仕事がなかったので、「くれる仕事」は全部ありがたい。もったいないので全て「断らなかった」。
全て「無料の仕事先」で出会ったADやDがくれた番組である。それに、加えて東海大学落研の先輩達も仕事をくれる様になったのだ。
春風亭昇太さんから電話があった。
「今度、赤坂のラジオ局で深夜やるから、入ってもらうぞ!」
「ありがとうございます」
大学の先輩、Dの山崎(実志)さんから電話があった。
「昇太の真打昇進特番をやるから、お前も入って欲しんだよ!」
「ありがとうございます」
有楽町で見習い作家の頃から知っているDのJさんから電話があった。
「羽野晶紀ちゃんの番組が始まるから、入ってくれるか!」
「ありがとうございます」
昇太「お前に書いてもらった、静岡のテレビ局の企画書が通ったから、お前は、出演者で一緒に出ろ!」
「えええ~! 出るんですか?!」
大学の大先輩。放送作家の佐藤かんじ(初代・甘奈豆)さんから電話があった。
「今度、赤坂でやる所ジョージさんの特番に入ってくれ」
「ありがとうございます」
いつも「無料の仕事」ばかりさせていた、師匠のМ先生まで、
「小林! フジの朝、ニュース番組やるから、お前も入れ! それと、テレ朝でもニュース番組やるから、入れ! 後、有楽町で山田邦子とキッチュの番組やるから、コント書け!」
あの赤坂で「ベトナム人を連れてこい」と言ったSさんまで(遡って読んで下さい)
「お主! 根本要(スターダストレビュー)の深夜番組を一回だけやらせてやる」
あの、理不尽オジサンまで単発ながら初めて作家の仕事をくれた。
さらに、名古屋中京テレビの仕事も増え、パチンコのフィーバー状態になってしまった。これでは寝る暇がない。
当時のスタッフには申し訳ないが、仕事は流れ作業になり、少しでも寝ることばかり考えていた。
チョット前まで全然仕事が無くて辛かったのに、今度は寝られなくて辛い。
人生は修行の連続である。ほどほどが長く続くのが一番いいのだが、それは贅沢というものだ。
この頃。月収が飛躍的に上がり、事務所の稼ぎ頭になってしまった。しかし、事務所は師匠Мの失敗で経営不振となり、ギャラの三分の二は払われなかった。そのまま、事務所は潰れて泣き寝入りである。
この頃、私はМ先生のベンツのローンを毎月7万円程払っていた。これも泣き寝入りとなった。
人生でもっとも儲けた時期なのに、私の元には大したお金は残らなかった。この後、フリーの作家となったが、そこからは地道な仕事が続いている。
最近の「過払い金」のCМを見る度に、この頃の私の超過払い金を思い出す。30年も前のことなので、もう、時効でとれないが、それもまた人生。♪ああ~川の流れの様に~! である。
すいません。このエッセイに笑う場所はありませんでした! おしまい! ユートピア!
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