放送業界のお話と落研と私的な思い出(瞳尻・黒舟)

「嗚呼!青春の大根梁山泊~東海大学・僕と落研の物語」スピンオフ・エッセイ。放送関係。業界のエピソードと近所の出来事

東海落研は落語長屋説!

 昭和55年に入学した東海大学落語研究部の先輩は、やたらと頭が良かった。これは、勉強で言う頭の良さではなく、人間としての「地頭」の良さだ。

 多分、落研対抗で山の中でサバイバル戦をやったら、我が部は東大にも勝ったのではないだろうか? 表現は分かりにくいが、臨機応変な判断。どこからでも笑いにつなげるセンス。人間力。どう考えても他の落研と違っていた。

 

 これは何故だろう? 私が思うに東海大の絶妙な偏差値が関係していると思う。クラブの中心人物に多かったのは田舎で一番の進学校のビリの人。つまり、中学まではトップだった地頭の良いグループだ。

 そして、次に多かったのが、超ダメな高校でトップクラスになって入学した人たち。私の同期の押忍(オッス・岩手県)などは学年でトップで野球部。同級生で大学に入ったのは自分一人だったという。学校のスターだったが、彼は臨機応変な判断が苦手。試験は丸暗記タイプの人間だった。

 そして、少数派は付属校出身。または、試験でたまたま知っている問題が出たラッキー組。私はこの数少ない付属校組である。

 

 東海は国立や難関私大と違い、同じ大学なのに学力(地頭)の幅が広いのだ。

 

 この環境が笑いを生むのに適していたと思う。

 

 進学校で勉強を挫折した「地頭が良い」グループは落語で言えば「物知りのご隠居さん」。ダメな学校で頑張ったグループは「八っつあん・熊さん」。付属校と運で入学したグループは「与太郎」である。

 この絶妙なバランスが毎日を面白く素敵なものにしていたのだ。

 

 我が落研はよく留年・中退するクラブとして学校から目をつけられていた。意外な話だが、留年者の多くは、元進学校出身者だった。「地頭」の良さを全てクラブにつぎ込んでいたのだ。

 

 私の五つ上の先輩に頭下位亭家留(とうかいてい うちどめ)さんと言う、秋田の建設会社・社長の息子が居た。

 この先輩は、落研に居ながら剣道の国体予選に出る程の達人なのに、剣道部に入らず落研を選んだ変人だ。

 当人曰く、高校時代は優秀で、早稲田にしか入りたくなかったと言う。

 高校三年時に明治大学への推薦(剣道推薦)の話があったが「断った」と言うのだ。

 当時は、その辺の大学はいつでも実力で入れると思っていたそうだ。

 

 この家留さんは三浪して東海大学に入学することになる。高校三年の時は、早稲田以外は行きたくないので、他は合格しても放棄したが、浪人するうちにドンドンどこにも受からなくなって、三年目は東海大しか合格しなかったそうだ。

 大学落研では委員長(部長)にまでなったが、留年を重ね、卒業することは出来なかった。落研の過酷な戦場で戦死した一人だ。

 

 二年先輩の二十八号さんも進学校組。高校時代は数学のテストで茨城のランキングに入ったこともあるという。ある日。二十八号さんが言った。

 「黒舟! 一人で講義出るの嫌だからお前もつき合えよ!」

 私は工学部の講義に出ることになった。私は経済学科、数学等まったく分からない。

 

 電気関係の授業だった。見ると黒板に見覚えのあるグラフが書かれている。教授が私を当ててしまった。

 「君、これ分かるかね?」

 「それは、ヒステリシスループのグラフ。面積の大きさが磁力の強さになります」

 先輩が驚いた!

 「おお~! 黒舟! 凄いな~!」

 

 これは、実は凄くもなんともない。私は高校が工業の電気科だったので、グラフのカタチを憶えていただけで、横に書かれた数式はサッパリ分からない。適当に知っている事だけ言ってみたのだ。私は無駄な運を持っていると思った瞬間だ。

 おかげで私の株が上がってしまった。

 

 講義の後。二十八号さんが言った。

 「黒舟! 学生金融で十万借りて俺に貸してくれ! 俺、もう借りられないんだよ! 利子は俺が払うから!」

 東海落研は先輩の命令を断る訳にはいかない。私は初めて「学生金融」を利用することになった。学生金融とは学生向けの街金である。利子はかなりの高額となる恐ろしいところだ。

 

 幸い二十八号さんは、毎月の利子をくれたし、魚屋でバイトして一年後に全額返してくれた。ここまでは、何の問題も無い。

 しかし、十万円の札束を渡された私は、すぐ金融に返さずに飲みに行ってしまった。

 いつの間にか全部使ってしまったのだ。毎月一万円ぐらいの利子を払うことになってしまった。一年後、バイトして完済したが、金融の怖さが良く分かった瞬間である(学生金融は利子を払わないと、親に連絡が行く。業者はとりっぱぐれが無いのだ)。

 

 この二十八号さんは、とても地頭が良かったが、やはり留年した。

 

 北海道出身の一団楽君という一年後輩が居た。彼も進学校組でとても地頭が良い。仲間が分からない微分積分を簡単に解いているのを何度も見たことがある。

 彼は高校時代・数学のテストで全道ランキングの上位に載ったことがあるという。

 当人曰く。模試の成績では青山学院に入れる筈だったが、落ちたそうだ。父親は浪人を許さない人なので、うちの大学に来ていた(家留さんの例があるので正解な気がする)。

 

 彼は家で勉強するタイプではなく、先輩と朝まで飲み歩いて、さらに、麻雀などしている。遊びを断らない男なのだ。講義の出席は大丈夫だろうか? と心配になる程だ。

 

 彼が二年生になった時。父親は留年しなかったご褒美に新車を買ってくれたという(社長の息子だった)。これは、完全に父親が騙されている。当時の東海大は二年には全員上がれるのだ。

 

 一団楽君は、うちのクラブには珍しく、四年で卒業したので、このくらいで許してあげよう。

 

 二年先輩におそ松さんという人が居た。この人も当人曰く進学校出身という。これはチョット眉唾だったかも知れない。

 この人は、クラブの委員長で、いつ行っても部室に居る人だ。聞くと、「一年生が、いつ、部室に来ても話が出来る様に、講義には出ずに待っている」と言うのだ。

 

 おそ松さんは、講義にも出ないし、試験すら受けない。もはや学生とは呼べない人だった。おそ松さんが部室でボソッと呟いた。

 「俺、出席もしてないし試験も受けてないけど、ヒョットしたら留年かな?」

 横に居た切奴(現・昇太)さんが叫んだ!

 「ヒョットしなくたって、留年だよ! このキ〇ガ〇! お前なんか踏んづけてやる!」ドンドンとおそ松さんを踏む切奴さん。

 「痛い! やめろよ! 俺はワインの葡萄じゃね~!」

 「そんないい物んじゃね~よ!」

 いつも、この二人はこんな会話している仲良しだった。後輩たちは、いつも、それを見て笑っていた。「このクラブ、面白い!」と。

 

 このおそ松さんは、四年間落研に居たが中退した。結局、最後まで講義もテストも受けなかったのだ。

 

 他にも、六年生で試験の前に十行の文が暗記できないと嘆いていた、のん太さん。三十分ある落語「ねずみ」をやっていた、のん太さんが何故十行が覚えられなかったのか? 素敵です。

 

 試験の前日。大学に下宿が近かった私の部屋に泊まり。一時間交代で寝て互いに試験の勉強をしようと言った、二年先輩のマー坊さん。

 「まず、俺が寝る」と言って、布団に入り。一時間後に起こすと

 「もう少し!」

 二時間後に起こすと

 「もうチョット!」

 三時間後に起こすと

 「もう、いいや!」

 と結局朝まで寝ていましたね! マー坊さん、素敵です(落研的には百点)。

 

 東海落研長屋は、オールスターキャストが揃う、テーマパークでした。

 

 ちなみに、春風亭一之輔師匠も進学校ビリ組。名門中の名門「春日部高校」出身。同級生は国立や早稲田・慶応がワンサカいる学校だ。

 そして、部員が居なかった「日大芸術学部落研」を救った。同期はゼロだったそうだ。後輩の柳家わさびを育てた功績も大きい。

 やはり、中学までトップで進学校で脱落した奴らは落語に向いているのかもしれない?

 

 

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