放送業界のお話と落研と私的な思い出

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どこまでも優しい「のん太さん」高橋先生!

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衝動買いの皮ジャン


 昭和五十五年。私が東海大学落語研究部に入った時。六年生の先輩に頭下亭のん太(とうかいてい のんた)さんが居た。雑誌の「an.an」「non-no」が流行ったことから、「亜ん太」「のん太」という名前が誕生した様だ。

 

 この先輩は、背が高くカッコよく、どこまでも後輩に優しい人だった。女子部員にも人気があるが、当人にナンパな部分は無く。モテルのに誘いには乗らず「モテない側」と一緒に笑いをとるタイプの人だった。

 

 のん太さんは、普段の会話も飲み会での振る舞いもとても面白い方で、我々は尊敬していた。しかも、東海落研には珍しく「後輩に優しい」のだ(他の先輩は応援団風)。

 

 部室に有った昔の文化祭のメモ書きを見ると「のん太」さん「亜ん太」さんが後輩と漫才をやっている。「のん太・実志(じっし・現ディレクター・山崎氏)」そして、「亜ん太・切奴(現・昇太師匠)」という組み合わせだ。

 のん太・実志はツービートのコピー。亜ん太・切奴はセント・ルイスのコピーだった。これがバカウケしたそうである。

 

 二人共、昇太さんより三年も先輩だが、文化祭の時だけシャレで後輩と色物をやっていたのだ。

 

 そして、この後輩の二人が、後に「学生ギャグ漫才・まんだら~ず」として「テレビ演芸」(テレビ朝日)の初代グランドチャンピオンとなった。

 二人の漫才のキッカケは、文化祭で先輩とやった、この漫才だったそうだ。

 

 この、のん太さんは卒業後、放送作家になった。「ビックリ日本新記録」の若手作家として競技の案を出したり、文化放送でラジオの原稿等を書いていた。

 

 私が放送作家になり、小田急線の小田急相模原から経堂に引っ越した時。トラックの運転をしてくれたのが、のん太さん(放送作家・高橋先生)である。

 五年も先輩が後輩の引越しを手伝うなんて異例の出来事である。その逆は日常茶飯事だが。

 

 引越しが終わると、手伝ってくれたメンバーに居酒屋でおごるのが恒例だ。しかし、のん太さんは「レンタカーのトラックを相模原まで返しに行くから、弁当屋の焼き肉弁当を買ってくれ」と言って、食べると、そのまま去って行った。

 のん太さんは、実は私が引っ越した経堂に住んでいた。トラックを返して、また、この街に戻ることになる。しかも、原稿がある様で「飲み会」は辞退していた。

 しかも、レンタカーは少しぶつけていたので、返す時モメたかも知れない。

 本当に優しい先輩である。

 

 私が放送作家の見習いを始めて三年目ぐらいだろうか? 先輩作家の織田さんが私に言った。

 「今度、ゲームの番組やるから、お前さんも入れてやるよ! アシスタントも付けるから、やってよ!」

 「ありがとうございます」

 ラジオの見習い作家の私にアシスタントまで付けて、スタッフロールで名前まで出してくれると言うのだ。こんなにありがたいことは無い。

 

 後日。最初の顔合わせがあった。喫茶店で織田さんと私が待っていると…。アシスタントの作家がやって来た。背が高く、カッコイイ…。のん太さんだ。

 驚く私に織田さんは、

 「こちら、高橋! 「ビックリ日本新記録」で一緒にやってた作家なんだよ!」

 「高橋です。よろしくお願いします」のん太さんは当然、気づいているが普通にしている。私は、我慢できず。

 「大学の大先輩ですよ。僕の下につく新人じゃありませんよ」

 「あれ? 高橋って、そんなに歳だったの? 若く見えるね! 悪い! 悪い!」

 話はそれだけで終わってしまった。 

 

 のん太さんは、流石にこの仕事は「断る」と思っていた私だが、「引き受けたのは自分だから」と、若手としてそのままやっくれた。

 放送の時のスタッフロールで織田さんと私の名前が出るのに、のん太さんの「高橋」の名前は出ないと言う屈辱的な仕事だったと思う。

 私も新人なのでスタッフに名前を出してと頼むことは出来なかった。出来れば三人の名前を出して欲しかったものだ。

 

 この番組のギャラは異例で、織田さんがみんなに手渡しするという形がとられた。あまりに少ないので、一年間まとめて払うという方式なのだ(毎月払うと安すぎて勤労意欲が無くなると思った様だ)。

 

 とある年末。喫茶店に呼び出された私とのん太さんは封筒に入った札束を受け取った。一回は少額でも一年まとめるとそれなりの厚さになる。

 しかし、見ると、のん太さんの束は私の半分ぐらいだった。申し訳なくて仕方がなかったが、私には何も言えなかった。

 

 別れて新宿を歩いていた私は、なにげなくマルイに寄ってしまった。すると、やたらと高い皮ジャンがあった。その時、ついポケットの札束を思い出してしまった。

 「そう言えば、学生の頃、皮ジャンなんて買えなかったな~!」

 そう思うと、もう、買っていた。バイクも持っていないのにライダータイプのものである。後日、テレビで陣内孝則さんが同じ物を着ていた。それなりの値段のものである。

 

 無駄遣いをして小田急線で経堂へと帰ると、車内でのん太さんと会ってしまった。他の仕事に行って丁度帰って来たのだ。

 一緒に駅を降りると…。

 「黒舟! 一軒行こうよ!」

 「はい!」

 

 中華料理店で腹いっぱい飲んで食べて、バカな話に花が咲いた。そして、お会計の時。私は言った。

 「すいません! 今日だけは私に払わせて下さい」すると、のん太さんが怒った!

 「バカ野郎! 後輩はいつもおごられるんだ!」と頭を張り倒された!

 私の半分の厚さの封筒から現金を出しておごってくれたことは言うまでもない。

 

 どこまでも、優しい先輩だった。

 

 新品の皮ジャンの袋を持って帰る私の足は重かった。チョット涙が出た。

 

 のん太さんは後に、病気でお亡くなりになった。具合が悪いことは知っていたが、手術で治ったと思った矢先である。

 

 そして、印象的だったのは、お葬式に沢山の落研OBが集まったことだ。過去、OBのお葬式でこんなに集まったことはない。

 

 誰にも好かれる、のん太さんの人柄が伺える。

 

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