音楽の知識もなく、名古屋の音楽番組をやるとこになった私だが、ギャラ無しの状態は三年程続いた。局は頼んでいないのだから当たり前の話だが、私は複雑な気持ちだった。ただ、「やるからには手を抜かない。自分なりに能力一杯のことはやろう」と思っていた。
私の名前は番組のスタッフロールにも流れない立場だったのだが、ここのスタッフは優しく、名前が出る作家と同等に役割を与えてくれた。
そのうちに、地元の大物作家Kさんが…。
「小林に、少なくていいからギャラはらったって! 名前ぐらい出してやってよ!」と、言ってくれる様になった。このK先生は会議でよく怒鳴る熱血漢だが、手を抜かない新人には優しい人だった。逆に楽している若手には、厳しい人だった。
こうなると、私もやりがいを感じてしまい。ギャラ無しなど気にならなくなっていた。この番組に参加できるだけで嬉しいぐらいだ。
子供の頃から、褒められたことがないので、ここのスタッフの温かさが嬉しかったのだ。
入って三年目ぐらいだと思うが、この「音楽番組」がリニューアルされることになった。司会が変わって、人気コーナーだった「ローカルスターベストテン」が無くなるというのだ。
そして、私の師匠Мと先輩作家のOが番組を卒業することになった。つまり、Мの弟子の私は必然的にクビである。しかも、地元の大物作家Kも卒業するという。
せっかく馴染んだ番組だが…。クビの覚悟をしていた。
すると、そこに、局の有名プロデューサーKさんが入って来た。
「君が小林君? 番組分かってる作家が一人は欲しいから、残ってもらうよ」
「ええ~!」
Kさんは、この番組の立ち上げのディレクターで、人気番組を一から作ったメンバーだ。番組が軌道に乗った後、別の番組の立ち上げを担当していた。
番組リニューアルは新番組に近い。そこで、Kさんが帰って来たのだ。
実は、このKさんは音楽業界で知らない人は居ない、伝説の人物だ。
多くの大物アーティストと友達の様に親しく、一緒に飲み歩く仲。ミュージシャンとの会話の中から新企画を立ち上げたりする人なのだ。
私は、この時、初めて直接話したと思う。つまり、Kさんは私のことをあまり知らない。現場のスタッフの誰かがKさんに「小林だけは、ギャラ無しでやってたから残してやってくれ」と言ってくれたに違いないのだ。私は当時ディレクターのAさんが助言してくれたと思っている。
番組の最後の日。師匠のМも打ち上げに参加した。そして、スピーチで言った。
「我々がクビなのに、うちの小林だけが残るそうで…。これからは、あいつのことを、サバイバル小林と呼んで下さい」
いつもは怖いМ師匠だが、意外にも笑顔だった。弟子が残ったことを喜んでいたのかも知れない。
リニューアルにより司会は、大竹まこと、野沢直子、いんぐりもんぐり、となった。
そして、私もギャラが貰えるようになり。番組で名前も流れる様になった。これは、新人にとって一つの夢である。
ある日、プロデューサーのKさんが、私に言った。
「この後、野外ライブがあるけど一緒に行くか?」
「行きます!」
ついて行くと、名古屋城近くの深井丸広場だったと思う。Kさんが言った。
「今、注目のバンドが出るんや!」
「そうなんですか?」
「すぐに売れるはずだから、番組に呼ぶつもりなんや!」
観ると、ステージを飛び跳ねる躍動感。異常な動きとパフォーマンス。確かに凄い!
私は思わずKさんに…。
「これは、ロックの吉田拓郎ですね!」と言った。
Kさん「小林! おもしろいこというな!」
私は音楽音痴である。まったく分からないが子供の頃から好きな吉田拓郎とマインドが似ていると思ったのだ。
そのバンドは、ザ・ブルーハーツだった。
この時、まだ、ブルーハーツは全国区ではなかったが、関係者には将来の大物と評判だったそうだ。
ライブの後、Kさんが言った。
「小林! ディスコ、行くぞ!」
栄の超有名ディスコへと入った。ディスコの営業が終わるまで居たのだが、最後にKさんが言った。
「ここの最後の曲、毎日、ブルーハーツなんだよ!」
営業最後の曲は「リンダ リンダ」。ディスコ中が大揺れの大熱狂である。昔から音楽業界では「名古屋で人気が出れば売れる」という言葉があるそうだ。保守的な土地柄だが、若者の音楽感覚は鋭いのだそうだ。Kさんは、この最後の一曲を聞かせるために私をディスコに連れて来たのだ。
何も音楽が分からない私にも、ブルーハーツの曲は胸に刺さった。
それから、数か月後。ブルーハーツは「夜のヒットスタジオ」に出演し、一気にトップへと踊り出た。
当然、ブル―ハーツは名古屋のこの番組に何回も出演している。
私はそれから、二十年後。フォークギターを始めたのだが、気づいたことがある。
好きだった「吉田拓郎」を弾き。さらに「ザ・ブルーハーツ」の曲も弾くようになったのだが、使われているコードが似ているのだ。
あの初めて観た時「ロックの吉田拓郎だ」と思ったのは、私の好きなコードが共通していたからだと思う。さらに、「ドブネズミみたいに美しくなりたい」と言う、まったく逆の歌詞を組み合わせるパターンも「拓郎さん」っぽく感じたのかも知れない。
この番組は、音楽音痴の私に、多くの一流アーティストのデビュー直後を見せてくれた。
会議での私はこんな感じだった。
私「来週のゲストは、人気あるんですか?」
「小林さん、このバンドはもう売れてますよ!ドリカムです」
私「そうなの?」
聞くと、声量が凄いし、確かに売れるわ! と思った。
私の名誉のために言うと、ドリカムが全国区になる前の、売れだしの頃です。
同じような会話が毎回繰り返された。
私「来週のバンドは不良? 怖くない?」
「彼らは、インディーズでは大物で、絶対売れます、Xです」
私「来週のバンド、これ、音好きだわ~!なんてバンドだっけ?」
「ユニコーンです。絶対、売れます。いや、もう売れてます」
私「来週のバンドだけど…」
私「来週のバンドだけど…」
「TМネットワークと久保田利伸です。久保田利伸は一人ですからね!」
「そのぐらい分かるよ!」
もう、メチャクチャ! 「徹子の部屋」に野球選手が来た時と同じ状態である。徹子さんは江川卓氏に「あなたは打つ人? 投げる人?」と聞いたらしい。
この番組のお陰で、私は当時のバンドにチョットだけ詳しい。
今、春風亭一之輔のFМラジオ「サンデーフリッカーズ」(JFN)のゲストによくミュージシャンが来るが、名古屋の音楽番組のお陰で、打ち合わせが楽である。
ゲストに「名古屋の「5時SATマガジン」の構成やってたんです」と言うと、ゲストは必ず…。
「ああ! カーリーの番組!」と言う。
カーリーとはKプロデューサーの愛称である。この会話をすると、ゲストが打ち解けて打ち合わせが和やかになるのだ。
元・TМネットワークの木根尚登さんが来た時も、ジュンスカイウォーカーズの寺岡呼人さんが来た時も、ZIGGYの森重樹一さんが来た時も、同じ会話が展開された。
名古屋の音楽番組での経験は私の財産となった。
新人の頃、ギャラ無しでやって、本当に良かった。「損して得とれ」という言葉は正しいのだ。
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