放送業界のお話と落研と私的な思い出(瞳尻・黒舟)

「嗚呼!青春の大根梁山泊~東海大学・僕と落研の物語」スピンオフ・エッセイ。放送関係。業界のエピソードと近所の出来事

過酷な仕事!こんなのありかよ?

 私が新人放送作家の頃。昭和60年頃だと思う。この頃、主な仕事はギャラ無しのものばかり。収入は師匠Мからの小遣いだった(事務所的には給料と呼んでいた)。

 

 そんなある日。М先生が言った。「ラジオの小ネタ集めの仕事やってこい。5000円くれるぞ!」

 

 これは、当時の私からしたら夢の様な仕事だ。某都内のAМ局で使う、時代のトレンドネタを雑誌や新聞から抜粋してまとめるというものだ。

 

 局の向かいにある喫茶店で待ち合わせると、プロデューサーのSさんが現れた。

 「Мに頼まれたから、お主に、仕事をやる! 毎週、三本ぐらいネタを持って来てくれ」

 「ありがとうございます」

 

 М先生が私に言った。

 「会ったか? どうだった?」

 「毎週三本ぐらいネタを出すことになりました」

 「よし! じゃあ、10本持ってけ! やる気を認めてくれるかもしれないからな」

 「えええ~ッ!」(心の声)

 仕事量をかってに増やされてしまった。

 

 しかし、真面目な私は手を抜くことが出来ない。一回目の提出は12本まとめて持って行った。すると、喫茶店でSさんが…。

 「お主、文章書くのが好きなのか? こんなに沢山出さなくていいんだぞ!」

 

 М先生の言う通り、印象を良くすることができた。私は「迷惑」だと思っていたが、М先生の言うことも一理あるのかも知れないと思った。

 

 何回か、例のネタを喫茶店に持って行ったある日。プロデューサーのSさんが言った。

 「お主、日本語が分かるベトナム人を捜してくれないか?」

 「えっ! それなんですか?」

 「今度、ラジオドラマで「サイゴンのいちばんながい日」をやるんだが…大統領の演説を現地の言葉に訳して欲しいんだ」

 脚本は当然、日本語で書かれている。ベトナム大統領の演説が日本語ではリアリティが無いというのだ。

 しかし、これは本当に放送作家の仕事なのだろうか? とは言え、仕事をもらったばかりにSさんに「嫌です」と言う勇気は無かった。

 

 しかし、どこで探したらベトナム語と日本語の分かる人物が居るのだろうか? これは、中国語やフランス語より、さらにハードルが高い。だいたいベトナムの言葉って何語なのか?「ベトナム語」ってあるのか?

 そんな知識もないまま、途方に暮れる私の出した結論は電話帳だった。電話帳で「留学生関連」の施設に電話しまくったのだ。すると、どこかの留学生会館に電話したところ、東京の留学生を調べてくれた。そして、一人見つけてくれたのだ。

 

 職員「いました! 早稲田大学の留学生で、チャン・バンビンさんがやってくれます」(何故か名前まで憶えている)

 私「ありがとうございます。何とお礼を言っていいか…」

 職員「翻訳のアルバイトですから、向こうも快く受けてくれましたよ」

 

 私は、自分の意外な才能に驚いてしまった。絶対無理だと思った「難題」を解決してしまったのだ。

 

 ラジオ局のSさんに伝えると…。

 「お主、やるな! まさか本当に見つけてくるとは思わなかったぞ!」

 「だったら、俺にフルなよ!」(心の声)

 

ラジオドラマの収録の日。この留学生と高田馬場駅で待ち合わせした。しかし、時間になっても学生らしい外国人が居ないのだ。「おかしい」騙されたのだろうか? くまなく探すと…。一人、アジア人のオッサンが居た。40過ぎに見えるが、他に居ないので声をかけてみた。

 「あの…失礼ですが…チャンさんですか?」

 「おお~! ワタシ…チャン・バンビンです」

 留学生は若者という私の固定観念は間違っていた。聞くと、チャンさんは国賓留学生で、国に帰ると高級官僚になる凄い人だった。数千円のアルバイトで呼んで良いのだろうか? 

 とにかく、私はチャンさんを連れてラジオ局へと向かった。

 

 局に着くと、台本の大統領のセリフをチャンさんに訳してもらった。ベトナムの言葉をカタカナで書いてもらったのだ。

 台本を見ると脚本は水谷龍二先生。大統領の役は大竹まことさんだった。

 

 翻訳を持ってプロデューサーのSさんは、大竹さんに渡したのだが…。すぐに帰って来た。

 「大竹さん、発音が分からないから出来ないと言ってるんだ! お主、チャンさんに大統領の役で出てくれないか頼んでくれ?」

 そんなのプロデューサーから頼んで欲しいものだが、将来の国のお偉いさんだったので、びびって私に伝えさせたようだ。

 仕方なく、チャンさんに…。

 「あの~! 大統領役で出演してもらえませんか?」

 「おお! それはオモシロイですね~! ヘタですけどイイですか?」

 簡単に交渉成立である。

 

 この時のチャンさんのギャラは5000円。私のギャラは10000円だったと思う。難しい人材派遣としては超格安である。

 

 お陰でプロデューサーのSさんは、私を信頼できる奴と思ってくれたようだ。ラジオ番組を貰える日も近いのかもしれない。

 

 数日後。Sさんが私に言った。

 「お主を見込んで頼むのだが…。車のタイヤホイールを磨く洗剤が300個余ってるんだが、どこかで売って来て入れないか」

 「えええええ~!」

 話を聞くと、番組のスポンサーからプレゼント用に貰った洗剤に応募が少なくて余ってしまったというのだ。局内で置き場がなくて困っているという。

 これは、完全に作家の仕事ではない。ドラマの時はギリギリ放送だが、今回は「放送」でも「作家」でもない。私への信頼は作家としてでなく、「難題を何とかする奴」としての評価だったのだ。

 

 サスガの私も、これは断ることにした。

 そして、ラジオの小ネタを出す仕事も無くなった。

 

 数年前。大竹まことさんと夕食を一緒にしたことがある。この時の話をすると、笑ってくれた。

 さらに、水谷龍二先生と飲み会で一緒になった時も、この話で笑ってくれた。

 今となっては、美味しいエピソードを頂いたことになる。

 

 しかし、現在、チャン・バンビンさんは何をしているのだろうか?  

 

 

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