私が東海大学落語研究部に入部した昭和55年に、6年生だった頭下位亭のん太(放送作家・高橋先生)さんは、運動神経が良く、テニスやバドミントンをやると後輩は誰も勝てなかった。
先輩は運動神経をひけらかすことはなく、運動神経の無い私をバカすることも無かった。私の記憶では先代(五代目)円楽師匠が好きで「ねずみ」など、東海の先輩があまりやらない噺を持っていたという。東海では、談志、志ん朝、両師匠の人気が高かったので、独特の感性があったのだと思う。
先輩に聞いた話だが…。のん太さんは、ある日、突然。後輩の実志(じっし・ディレクター山崎氏)さんに「劇団のオーディション行くから、一緒に受けよう」と言ったそうだ。多分、一人で行くのが心細かったのであろう。のん太さんの優しい性格が出ていると思う。
実志さんは芝居は好きだが、別に役者志望ではない。しかし、先輩の頼みなので一緒に行くことになったそうだ。
その劇団は「東京キッドブラザース」。あの柴田恭平さんでお馴染みのミュージカル劇団だ。そう言えば、のん太さんは背が高く、舘ひろし風の体形である。柴田さんの隣に居たら似合うタイプなのかも知れない。
聞くと、歌や演技の試験があるらしく、実志さんも課題となるレコードを購入することになった(多分、自腹)。でも、もう断れない。東海落研は先輩の命令は絶対なのだ。
会場は何と! 九段会館。後に震災で屋根が落ちて話題になった有名なホールである。オーディションには、柴田恭兵さんも来たと言う。
二人がどんな演技をしたのか定かではないが、オーディションの最後に、劇団側から「最後に、何かやりたい人?」と聞かれたそうだ。好奇心の強い、実志さんが手を上げた。
「落語できます」
「いいねー! チョットやってみて!」
そこで私服のまま正座して「粗忽の釘」をきっちりとやると、会場から笑いが起ったという。この先輩は切奴(きりど・現・昇太師匠)さんと並んで、我が部のエースだった。
この時、のん太さんは手をあげずに見ていたそうだ。
後日。のん太さんに劇団から「不合格」の通知が届いた。
そして、実志さんに「合格」の通知が届いた。
しかし、実志さんは最初から役者になろうとは思っていない。すぐに断りの連絡を入れたそうだ。劇団からしたら「じゃあ、何で来たんだ?」と思ったことだろう。
のん太さんは何事も無かった様に、飲み会で爆笑をとる普通の先輩に戻っていた。この話は、当人の、のん太さんからは聞いたことが無い。チョット恥ずかしいエピソードだったのかも知れない。
ところで、この時、実志さんが劇団に入っていたら…。今頃、個性派俳優で活躍していたかもしれない? しかし、中退して役者になっていたら、後の、学生ギャグ漫才「まんだら~ず」(実志&切奴)も無かったことなる。
当然、私が毎週楽しみにしている番組「オトナの楽園 昇太秘密基地」(BS朝日)(実志・山崎氏はブレーンをやっている)も無かった筈だ!
「先輩! 宣伝しときましたよ! 黒舟がやりました!」
と冗談はさておき。それぞれの人生はこれで正解だったのだ。
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