放送業界のお話と落研と私的な思い出(瞳尻・黒舟)

「嗚呼!青春の大根梁山泊~東海大学・僕と落研の物語」スピンオフ・エッセイ。放送関係。業界のエピソードと近所の出来事

米丸師匠が…全日本学生落語名人位決定戦の思い出…

 同じような文章を度々書いているが…。重複は承知で書いております。

             ↓

 桂米丸師匠が御逝去された。昭和36年生まれの私にとて米丸師匠は「お笑いスター誕生」の審査員として馴染みがあった。

 テレビスターであり、映画にも多数出演。前座の頃から新作落語で勝負するという古今亭今輔師匠の実験的な試みに、見事に結果を出した大スターである。

 

 昭和56年。東海大学落語研究部の二年生だった私は、日本テレビの特番「第四回・全日本学生落語名人位決定戦」の予選に参加しなかった。絶対負けるから恥をかきたくなかったのだ。

 優勝したのは早稲田大学・寄席演芸研究会の伊達家酔狂さん。多分、4年生である。この方は、日テレの番組「お笑いスター誕生」を落語で何週か勝ち抜いた唯一の人だ。当時、実力は別格。演じ方はプロに準じるものだった。

 こんな人に、私が勝てるわけがない…。部室でテレビを見た感想などを言っていると…。四年生の切奴さんが言った。「何で予選行かなかったんだ?負けても他の大学がどんな落語やってるか見るだけでも勉強になると思わないのか?」。

 私は返す言葉もなかった。切奴さんは第二回の優勝者(名人位)言葉に重みがあった。この時切奴さんは漫才で他局の番組のチャンピオンだったので、もう学生落語には出ていなかった。ふがいない後輩が闘わずして早稲田に負けたのが許せなかったのかも知れない。

 

 翌年。私は「第五回・全日本学生落語名人位決定戦」の予選に参加した。負けても体験する「記念受験」みたいな感覚だった。

 昭和57年。四谷倶楽部(蕎麦屋の二階)での予選に出ると…。何と!爆笑となった。東海では「ヘタクソ」と言われていた私が誰よりもウケている(この時間の予選では一人だけウケた)。

 

 当然。決勝の本選に出場することとなった。全国から決勝に11人が選ばれていた。

中途半端な数なのは「予選で判断が付かなかった」のだろう。または、一人半プロがいたので特別枠で一人追加した可能性がある。

 この時。本選の審査委員長を務めたのが、米丸師匠でした。

 

 私はパワーだけで押す「反対俥」。勝手に作ったギャグを入れ込んでいた。司会の徳光和夫さんが審査員の一人、春風亭柳朝師匠にふる「柳朝師匠どうでしょう?」。

 柳朝「元気が良くて良いね!今日は、みんな面白い!誰に入れていいか分からないよ!結構でした」。とても嬉しい言葉を頂いた。柳朝師匠は春風亭一之輔さんの大師匠。一朝師匠の師匠である。徳光「米丸師匠、どうでしょう?」米丸「結構でしたね!新しいギャグがふんだんに入ってましてね…でも、落ちが「芸者あげて」は古いね。もっと学生らしい落ちにしたら良いと思いました」。何と!褒めながらも辛口。新作派の師匠は若者が馴染みのない「芸者」で落とす古典の落ちに違和感を感じていた様だ。

 

 私は賞は頂けなかった。審査委員長の言葉の通りである。

 

 優勝は私の後に出た中京女子大。その次の早稲田も大ウケ。さらに、桃山学院タージンが笑いをとり過ぎて、審査員の円歌師匠に「まくらで、わーわー!とウケすぎ!もったいなかったな!噺だけやったら良いなと思ったね」。ウケすぎて小言を言われるとは光栄な話だ。柳朝「最後の人、上手すぎ!桂文珍に教えてあげなさい」凄い褒め言葉である。柳朝師匠は全員に褒め言葉しか言わなかった優しい方である。

 

 話がそれたが…。米丸師匠の「学生らしい落ちの方が良い」というのは芯を突いていたと思う。どうもありがとうございました。

 

 

 

宣伝。ネット書籍「嗚呼!青春の大根梁山泊東海大学・僕と落研の物語~」上・中・下

 

「嗚呼!青春の大根梁山泊~放送業界編~」も出てます。

 

直木賞には程遠い、青春エッセイを皆様に…

安いです。上→200円。中→300円。下→300円。

「放送業界編」800円(高そうに見えますが、上中下に分けていないので、枚数と値段は同等です)

「青春落語バカの楽しいエピソード」有名劇団の主催者や脚本家、演出家絶賛!

社会人落語の大御所・若木家元翁(元治ー)さん(国学院OB)も読んだかどうかは分からない名作エッセイ!

      ↓ 

 https://note.com/bakodayo1874basu