私が東海大学の落研だった四十年前。小田急線「大根駅」(現・東海大学前駅)が学校の最寄りだった我々にとって、寄席と言えば新宿「末広亭」だった。
乗り継ぎ無し一本で行ける唯一の寄席だったことと、あの、木造二階建ての建物が昔の日本を感じられて好きだった(建物は現在も変わっていない・戦後の建物だが明治・大正の匂いがする)。
当時。末広亭に行くと…落語協会では、先代・小さん、先代・馬生、談志、志ん朝、先代・柳朝、円鏡、小三治、小朝…。芸術協会では、米丸、柳昇、先代・文治、先代・助六、さらに、二つ目時代の小遊三(敬称略)、などの顔付けがされていた。
悲しいかな、この豪華メンバーでも平日はガラガラ。平日昼だと主任が立川談志師匠なのに私を入れて9人で観たことがある。当時、池袋はもっと悲惨だった様だ。
そんな頃。私が末広亭へ行くと、春風亭柳朝師匠は必ず「粗忽の釘」をやっていた。私は「この師匠は寄席では「粗忽の釘」しかやらないんだ!」と勝手に思い込んでいた。
柳朝師匠は、春風亭一之輔の大師匠(一朝師匠の師匠)で、学生の落語の大会で私のことを褒めてくれたありがたい師匠である。
なんとなく、ラジオ放送を終えた後の雑談として「学生時代に末広亭に行くと、柳朝師匠はいつも「粗忽の釘」だったよ!」と言ってみた。
すると一之輔は…
一之輔 「それ、運が良いですよ!寄席で客が少ない時は「勘定板」ばっかりやっていたらしいですよ。「粗忽の釘」をかけるのは、やる気がある時ですよ!」
私「そうなんだ!」
私は「はっ!」とした。お金のない学生の頃は、メンバーの良い時しか寄席に行かない。だから、私が観る時は、小さん、志ん朝、談志、柳朝、馬生、円鏡、小三治、小朝、の内の何人かが出ている時なのだ。
当然、客は当時としては珍しく満員。波打つ笑いが起きていた。私は基本的に演者がのっている興行しか観ていなかった。だから逃げネタの「勘定板」に出会わなかったのだ(「勘定板」はチャントやればいいネタですが…)。
思い出してみると…。平日昼席の主任が談志師匠で客が九人だった時。談志師匠がやったのは「勘定板」だった。
やはり、勘定板はダメな客の時にやるネタの様だ。普段昼主任はトークだけで降りる談志師匠としては、この日はかなりのサービスだったと思う。
あきらかに落研みたいな学生が客席に居たから、サービスでやってくれたのかも知れない。
それから、数日後(以前も書いたエピソードですが…)。
本厚木で開かれた談志師匠の独演会を観に行った帰り。スタッフに止められて「談志師匠が、落研の奴が来てるから待ってる様に」とのことです。と言われた。
面識もない師匠と会うのはドキドキしたが、現れた談志師匠は優しい笑顔で「学生が古典なんかやるな!自分で作ってみろ!そうすれば、新しいものが出来るかもしれない!今の噺家の新作はダメだ!」と言って去って行った。
まだ、談志師匠は前座に入りたての春風亭昇八(昇太)さんのことを認知していない時の話である。
後に談志師匠がテレビで「昇太!こいつはタダ者じゃないです!これからの落語の定番は昇太のスタイルになるんじゃないですか」と言っていた。後輩としては、テレビを見ていて、なんとも誇らしかったのを憶えている。
一之輔さんの話から、私の思い出が色々と繋がって行った。人生は色々なところで繋がっているものなのだ。
学生時代。柳朝師匠に褒められた時の話も登場する、ドキュメント・エッセイ!「大学の先輩は褒めてくれないが…プロは褒めてくれるんだ!」と思った。
そりゃそうだ!落研の学生は良い客なのだ。ちなみに、私は鎖骨を折って鉄板を入れて釘で止めたことがある。あの時は「鎖骨の釘」という言葉が頭の中に広がっていた。「だから、何だ!」と言われると…。それだけのことです!
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このネジ釘が医療用の「鎖骨の釘」なのだ。二年間体内に入っていた!
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