およそ四十年前の話だが、一度だけ青山学院大落研の文化祭に行ったことがある。何故一度しか行っていないかと言うと、私の居た東海大落研と同じ時期に文化祭をやっていたからだ。
仲の良かった渋谷三大学(東海大、青山学院、國學院)の行事は互いに顔を出していたのだ。國學院の文化祭は毎年行っていたし、國學院は東海大の平日の部室に普通に居たりした。しかし、青学の文化祭だけは日程が重なっていたので、なかなか観に行けなかったのだ。
初めて観た青学落研の文化祭は、ある意味刺激的だった。
教室を二つ借りて、一つは落語の寄席。もう一つは漫才・コント・等の色物の寄席を開いていたのだ。
落語は本業なので分かるのだが、漫才・コントはプロのコピーなど、適当に覚えて宴会芸的な「ゆる~い!」感じでやっていた。
つまり、学生なのに寄席の掛け持ち、しかも、ジャンルの違うお笑いをやっているのだ。
東海大もシャレで漫才・コントをやる者はいたが、落語の間に極まれに入る程度だった。
しかし、この年の環境は最悪で、隣でロックバンドがガンガン演奏している状態。声の小さな一年生など落語が客に聞こえないのだ。
私はそれを観て「これは、絶対ウケないな~!」と思った。実は楽屋を訪ねるのをやめた。もし、訪ねて「着物貸すから一席やってよ」と言われたら困るからだ。
そこに、火の見家はん生(一年後輩・源海より襲名)が登場した。彼はロックバンドの騒音など気にせず、古典落語の「禁酒番屋」に入った。絶対シラケると思って観ていた私の予想をあざ笑うかのように…。始めて三分もすると笑いが起った。
隣のロックバンドは今もノリノリの演奏をしている。彼はプロの様な重厚な本格派だ。環境が最悪でも「心の乱れ」が無い。
もし、私が上がったら高座で「隣、うるさいよ! こんなのウケるわけないだろう!罰ゲームかよ!」と言って誤魔化して、すぐに降りて来るところだ。
最終的に、はん生君は、大きな拍手とともに「どうだ!」と言わんばかりに去って行った。彼は今、放送作家として活躍している(作家としては私より先輩だ)。モノマネが上手く、コージー富田より先にタモリのモノマネをしていた。伝え聞いた話では、立川談志師匠の前で談志のモノマネをして、師匠に「俺より談志がうまい」と言われたという。
ここまで、来たら宣伝も入れておこう。彼は橋克弘と名乗り(本名だ!)最近「江戸川柳完全攻略読本」という書籍を出版している。
私も購入したが、面白くて為になる一冊だ。今まで、何も知らなかった自分を反省する程である。彼は川柳の研究も本格派でブレがない。隣にロックの本が並んでも気にしないだろう(コーナーが違うから並ばないが…)。
その後。OB三人のコントが出て来た。一人は料亭花柳(芸術院せん生より襲名)さんだったが、他の二人は記憶にない。
やったのは「コント赤信号」の「東京を埼玉にする薬」が登場するネタの完コピだ。これが、爆笑となった。
隣のバンドは今も演奏している。なんだ!この人たちは…。
さらに、驚いたのは。そこに、プロの噺家・桂文朝師匠が登場したことである。文朝師匠は青学のOBではない。学生がギャラを払ってお願いしていたのだ。
隣のバンドは今も演奏している。他の噺家なら「バカにするな!」と怒って帰ってもおかしくない状況だ。
そこに何事もなかったかのように登場した文朝師匠は、騒音をいじることもなく、淡々と噺に入った。しかし、ドカ~ン! 大きな笑いが起った。
「学生さんたち、これがプロの芸ですよ!」と言わんばかりの高座だった。
当時、文朝師匠は学生の高座に上がるような師匠ではない。
上野・本牧亭で「小三治・扇橋・文朝・三人噺」という会を定期的に開いていた落語会の超エースである。
多分、ファンの学生に頼まれたので特別にシャレで出てくれたのだろう。
ちなみに、文朝師匠は大学生の落研に人気があり、何人もの落研出身者が弟子入りを志願して「断られた」師匠である。師匠は弟子を取らないことで有名だった。
生涯弟子をとっていないので、入れなかった元学生達もあきらめがつくというものだ。
これも「買ってチョ~だい!」
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