放送業界のお話と落研と私的な思い出(瞳尻・黒舟)

「嗚呼!青春の大根梁山泊~東海大学・僕と落研の物語」スピンオフ・エッセイ。放送関係。業界のエピソードと近所の出来事

「どうする家康」の舞台が私の地元に…

 大河ドラマ「どうする家康」によると、家康が見附城を本拠にしようとすると信長に浜松にするように言われていた。事実は知らないが、ドラマでは「曳(引)馬城に行け!名前が悪いから変えろ」と言われている。そこで浜松と名付けた様だ。

 

 このニアミスで家康が来なかった見附城は私の地元。多分、磐田北小学校の有った場所らしい。隣のお寺に今も城の土塁などの跡があると聞く。以前も書いたが…古今亭志ん生の落語で有名な「火焔太鼓」は、元々この見附城(磐田城?)にあったらしい。

 私の育った家の住所も磐田市見附…だった。また、ドラマで言う見附城とは、現城山球場(磐田球場)のある場所。城崎城(築城途中で中止)のことかもしれない。しかし、ここの城は完成していないのでドラマ上の嘘かも知れない。私の知識では分からないので、ご勘弁を!

 

 武田信玄が攻めてきて、見附城、二俣城(二俣は陸軍中野学校の分校があり、小野田さんがスパイ教育を受けた街である)、を落とし。家康のいる浜松城に迫った。自分の育った町が、歴史の舞台だと思うとワクワクする。信玄は私の知る山や峠を越えて進撃したのかもしれない。あの、肥溜めに兵が落ちたかもしれない。いや、当時と肥溜めや畑の位置は変わっているだろう。

 ちなみに、森の石松を殺した都鳥三兄弟も浜松あたりである(石松は架空の人物だが)。

 

 今週は、ついに三方ヶ原で家康が大敗した。地の利を生かしてその先で叩こうとしたが、逆に広い場所で待ち伏せされてしまった。信玄の罠にはまったかたちである。

 無理に守りを固める城攻めをすると自軍も消耗する。そこで、城を素通りして細い道を通るフリをして徳川軍をおびき出した訳だ。

 また、立川談志師匠のCDで「三方ヶ原戦記」を何度か聞いたが、いつも、途中で寝てしまい内容は覚えていない…(我ながらなさけない集中力だ)。

 

 しかし、信玄が後に負けるのが嘘のような展開である。多分、当時の民は「もう、信玄が街を支配する」と思ったことだろう。

 

 しかし、家康はよく助かったものだ。ドラマでないとありえない展開である。

 

 今日のコラムは落ちらしき展開が一切なかった。戦国の兵なら切腹ものだ!ここは、影武者にまかせて、私は生きのびるつもりだ。

 武田めー!憶えてろ!