放送業界のお話と落研と私的な思い出(瞳尻・黒舟)

「嗚呼!青春の大根梁山泊~東海大学・僕と落研の物語」スピンオフ・エッセイ。放送関係。業界のエピソードと近所の出来事

驚き!「お笑いマンガ道場」の裏話と「5時SATマガジン」

 ヤフーを見ていたら「ねとらぼ」というページで…。大好きな「お笑いマンガ道場」の立ち上げ秘話が紹介されていた。

 当時の中京テレビ・伝説のプロデューサー・澤田さんと、放送作家・大岩さんの対談である。

 

 驚いたのは「お笑いマンガ道場」の初代司会は桂米丸師匠と書かれている。私が静岡で見ていた時は、もう、司会は柏村アナだった。確か、柏村さんは「飛び出せ!全国DJ諸君」というラジオ番組で、全国1位になった地方局のアナである。

 私はこの番組を聞いていたので「あっ!あの人だ!」と思ったものだ。

 

 米丸師匠が司会だった時は、中京テレビ単独の放送だったのだろうか?これも、チョット見てみたい気がする。

 

 「お笑いマンガ道場」には、新人の三谷幸喜さんも参加していたが、当時は新人なので中心ではなかった様だ(三谷さんは私と同級なので途中参加である)。

 

 「マンガ道場」の初期の作家で活躍した「こじま琢磨」さんのことが紹介されている。問題の仕掛けなどの基礎を作った人の様だ。

 早く亡くなってしまった作家さんだが、その噂は師匠のМからよく聞かされていた。師匠М曰く「お前は、ダジャレ考えるのに1日中やっている。琢磨ちゃんもそのタイプだった。あんまり、真剣にやり過ぎると早死にするぞ!琢磨ちゃんはダジャレ一つに徹夜して、名古屋のホテルでポックリ亡くなったんだ!お前は、死ぬなよ!」

 

 また、私は別の会議で演出家が「こじま琢磨さんはダジャレの天才だった」と語ったのを憶えてる。

 みんなに好かれる真面目な人だった様だ。

 

 しかし、私は似ていない。私は当時、事務所に1日中居て電話番をしていたから、ヒマでラジオで使う「ダジャレ」を無数書き出していたのだ。家に帰れば、飲みに行ってしまう性格である。

 M師匠は紙一杯に書かれたクダラナイ駄洒落を見て「私が真面目過ぎる」と勘違いしていたのだ。

 

 話は戻るが…。

 この「マンガ道場」の次に澤田さんは「5時SATマガジン」を立ち上げている。そして、この番組にも作家のこじま琢磨さんが入っていた。

 この番組は、毎週ロックスターのゲストが来る音楽バラエティーだ。しかし、琢磨さんは数年で亡くなってしまった。

 

 そして「5時SATマガジン」は司会を変えながら長寿番組となった。私は最後の7年間。そして、後番組の「電波結社バババ団」(フォークダンス DE 成子坂)の構成に参加している。

 琢磨先生とは面識がないが、その、意思を繋いだスタッフの一人なのだ。プロデューサーの澤田さんも私が入った時は、企画で名前だけ残っていたが、もう、会議には居なかった。廊下ですれ違ったりはしましたが…。

 

 名古屋ローカル(愛知、岐阜、三重)のこの番組は、「X VS ジュンスカ・クイズ合戦」や「ロックスター夢の球宴(Xのトシも参加した野球の試合)」「ロックスターボーリング大会(BOOY 聖飢魔Ⅱ シャネルズ等が対決」「カールスモーキー石のお絵描き」「素人出演ドラマにロックスターが共演」等、破天荒な企画で話題をさらっていた。スター達が「地方ならシャレでやるよ」的なノリが発生していた。

 

 この頃のスター達が、今、FMラジオ「サンデーフリッカーズ」(JFN)のゲストにくると、この時のことを懐かしがってくれる。

 それが、私にはとても嬉しい。

 

 「お笑いマンガ道場」には入れなかった私だが、ニアミスの恩恵を受けている気がする。

 

 

※この記事のアドレスを、ここに張り付けようとしたら、ダメだった。何かリミッター  の様な物があるのだろうか?皆さん、元の記事は自力で検索して下さい。

 

 「お笑いマンガ道場」をテレビで見ていた大学生のドキュメントはバカバカしく、悲しく切ない…。

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