私の東海大学落語研究部の同期に、丸鯉(まるっこい)という男がいた。昭和55年に入った一番最後の一年生部員である。
彼は本当に小太りで「まるっこく」愛嬌があった。我が部では部長のことを委員長と呼んでいたが…。
二年の女性の先輩Aさんが私に「丸鯉あたりが二年後委員長になれば、いいわね」と言った。「何故?私じゃないのだ!」。はっきの言って丸鯉の落語はヘタクソだった。声が大きくて度胸があるだけだ…。彼は感じの良い奴だったが、私はその好感度が嫌いになった。嫉妬なのかもしれない…。
彼は入部してすぐに辞めてしまった。クラブの応援団の様な厳しさについてこられなかったのだ。
数か月後。彼は「学生お笑いサークル」を立ち上げた。私はバカにして「絶対観に行くものか!」と思っていた。落研を辞めたつまらない奴に「お笑い」など出来る訳がない!
そして、二年後。落研に彼の同好会から助っ人の依頼が来た。当時、TBSで放送していた、ビートたけしさん司会のお笑いゴングショー「お笑いサドンデス」に落研からも出て欲しいというのだ(オーディション参加の依頼)。
三年だった私は「ふざけるな!あんなつまんない団体と一緒にやれるか!ことわってこい!」と後輩に怒った!私のプライドが許さなかったのだ。
退部した彼。丸鯉は自分では芸をしなかった様だが、プロデューサーとして優秀で、各大学の有望な学生芸人を束ねて放送局に売り込んでいたようだ。部員がトレーナーを使う見立て芸でテレビに出ていた。
さらに、学生時代のデーモン小暮や明治大学大川興行も、この番組に出演していた。
今、ふと思う…。あの時…。私が参加していたらデーモン小暮と仲良く成れたかもしれない…。大川総裁とは、その後「ヤングジャンプの文化祭」やラジオ番組で遭遇したが…。なんだか、デーモンさんには悔いが残ってい居た。
そんなある時。名古屋で構成していた「5時SATマガジン」(音楽情報バラエティー)という番組のプロデューサーKさんに誘われて飲みに行くと…。そこには、人間の仮の姿をした小暮君がいた。我々は皆、飲み屋の他の客を気にして「小暮君」と呼んでいた。
その時は学生時代のニアミスの話はできなかったが…。チョット、シンクロして、水道橋博士の言う「人生は伏線の回収」を少し体感した。
ちなみに、私が放送作家の弟子になった、M先生は「お笑いサドンデス」の作家だった。私が弟子に成りたての頃「お前、東海大なら〇〇知ってるか?仕事のできる奴だったぞ!」と丸鯉のことを話していた。私は「知りません」と答えていた。多分、奴だが本名を知らなかったのと、奴を褒めるM先生は嫌だった。私はほとんど褒められなかったのだから…。
丸鯉君は、今、何しているのだろうか?多分、何をやっても成功している奴だと思う。
丸鯉君は絶対に読んでいない、あの頃の青春ドキュメント!(浪曲風)♪おバカは死ななきゃ~治らな~い~!ジャンジャン!ジャンジャン!
♪落研学生の武勇伝を~!不便ながらも~勤め~ま~す~!
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直木賞には程遠い、青春エッセイを皆様に…
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