放送業界のお話と落研と私的な思い出(瞳尻・黒舟)

「嗚呼!青春の大根梁山泊~東海大学・僕と落研の物語」スピンオフ・エッセイ。放送関係。業界のエピソードと近所の出来事

下村先生とプロレス研究会

 私の好きな先輩作家に、下村稔先生がいる。この人との出会いはラジオの加ト茶さんの番組だったと思う。

 歳はいくつか上で放送作家としても先輩である。この方は、放送の歴史、お笑いの歴史、スポーツに精通している。飲んでいると面白い昔話や蘊蓄がドンドン出て来るのだ。私は、下村さんのバカ話を聞きながら飲むのが楽しみである。

 

 下村さんに放送作家になった経緯を聞いたら、作家の事務所の人と電話でプロレスの技を掛け合ったら「採用」になったという。

 言葉だけで、次々とアドリブで技をかけるのが「試験」だったというのだ。

 

 詳しく話を聞くと…。下村さんは立教大学プロレス研究会の創立メンバーだという。立教は日本で初めて「プロレス研究会」を作ったパイオニアである。その創立メンバーなら、「電話プロレス」で「採用」になった訳も納得がゆく。

 

 そして、プロレス研究会と言えば、私にも思い出がある。実は、東海大学落語研究部では、シャレで「プロレス研究会」もやっていたのだ。後に、名前ごと別の団体に譲渡したが、昭和50年代初期から中期にテレビや雑誌に出たのは、落研の先輩達の仮の姿だった。その時のスターレスラーには、チョモランマ切奴(きりど)こと春風亭昇太師匠もいた。小さい体を生かしたルチャ・リブレで観客を魅了していたのだ。

 

 先輩から聞いた話では、東海落研プロレス研究会は、テレビの企画で立教プロ研と試合をしている。東海は技を当てない演技のプロレスだが、立教は本気でケリを入れて来るので、痛くてしょうがなかったと言う。

 この話を下村さんにしてみた。すると…。

 「やった! やった! 「独占! 大人の時間」(テレビ東京)だったかな? あの時、東海の南茂(なんも)さんと言う人を憶えてるよ。がたい大きくなかった?」

 ちなみに、南茂さんとは東海落研に8年在籍した、伝説の先輩。巨人軍に例えると長嶋茂雄にあたる不滅のスター、独坊(どくぼう)さんの本名である。しかし、がたいが大きいのは多分、映画研究会の雷電(らいでん)さんだったと思う(プロ研には文化部連合会の他の部も参加していた)。名前が混ざってしまっているようだ。二人は喋りが似ているので間違ったのはうなずける。

 「その時、居たんですか? 昇太さんも居たはずですよ」

 「それは気づかなかった! そうなんだ!」

 

 さらに、下村さんの話を聞くと、立教プロ研は体も鍛えていたが、笑いの要素もあって異種格闘技戦もやっていたそうだ。豆腐屋のオヤジに扮したレスラーがリヤカーを引いて登場するなどのパフォーマンスもあったとか。笑いの要素では、我々のプロ研と通じるものがあったようだ。

 

 春風亭一之輔のFМラジオ「サンデーフリッカーズ」(JFN)の初期の放送で、ゲストに困った私は下村先生に「立教プロレス研究会」の創設秘話を話してもらったことがある。立教はクラブが無くなったそうだが、全国の大学には今もプロ研がある。その意味でも歴史を作った男である。話が面白く、大いに盛り上がった。

 

 その数年後。一之輔師匠の親戚の女の子がラジオの見学に来た。マスコミ関連の専門学校に行っているそうだ。その女の子が私に言った。

 「下村先生、出たことありますよね?」

 「何で知ってるの?」

 「私の学校の講師です。私、今、教わってます!」

 下村先生は有名な専門学校で、放送作家の講義をしているのだ。

 

 下村先生と一之輔師匠、そして、親戚の女の子まで繋がってしまった。

 

 

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