放送業界のお話と落研と私的な思い出(瞳尻・黒舟)

「嗚呼!青春の大根梁山泊~東海大学・僕と落研の物語」スピンオフ・エッセイ。放送関係。業界のエピソードと近所の出来事

東海大落研の「東楽亭」の看板!

 昭和55年。私が東海大学落語研究部に入部した時。部室入り口の上にはベニヤ板で作られた「東楽亭」と言う大きな看板があった。

 

 この看板はしっかりした橘流寄席文字で書かれている。そのうまさは一目でわかる程だった。

 この文字を書いたのは、14期の楽陳さん。寄席文字の上手さと、書く速さが伝説となっているOBだ。

 

 元々「東楽亭」とは文化祭の時だけ使うもので、我々の亭号ではない(亭号は頭下位亭)。何故か文化祭の時だけ「東楽亭富士見寄席」と名乗って公演していた。

 大学から富士山が見えるのでついたと思われるが、何故文化祭だけなのかは不明である。

 

 私の入学時に委員長(部長)だった二代目・甘奈豆さん(三年)が、この東楽亭の文字がいかにうまいか説明してくれた。

 そして、見上げながらボソリと言った!「でも、俺の方が上手いけどな!」

 その目が輝いた!

 

 「黒舟! 裏からベニヤと角材持ってこい!」

 

 材料を集めると、ベニヤに角材で枠を作り横長の看板を作った。

 

 「墨を持ってこい!」

 

 集中すること三十分程。突然、二代目・甘奈豆さんの筆が動いた!

 

 「よし! 書くぞ!」

 

 すると一気に書き上げた。その姿は何かが乗り移っている様に近づきがたかった。

 

 「できた!」

 

 見ると、以前の文字より線の太い、しっかりした文字だ!

 

 「いいか、黒舟! 寄席文字はお客様が一杯入る様にすき間を少なくするんだ。今までの字は上手いけど線が細いだろう? それでは書道だ! 俺のは橘流家元・橘右近の文字を模しているから太くて丸いんだ! どうだ! 尊敬したか?」

 

 私は別に尊敬はしなかったが、大したものだと思って見ていた。思うに、寄席文字を担当する人は、何か部室に自分の痕跡を残したいのだと思った。「東楽亭」の看板を書けば、その後、ずっと部室の正面に飾れるのだ。

 

 その二年後。私が三年生の時。同期の委員長だった我裸門が看板を見上げて言った。

 

 「この字、上手いな! よし! 俺が書き直そう!」

 

 上手いなら書き直さなくていいのだが、この男も、自分の字を残したかったのだろう。一年生に額を作らせ、すぐに筆を走らせた。

 

 この男。何の集中もなく、スラスラと適当に書くのがスタイルだ!

 

 「できた!」

 

 見ると驚いた! まあまあ、上手いが…。とても、今までの文字に勝てない。私が観た三枚の看板では一番ヘタクソだった。

 

 この男、落語もそうだったが蘊蓄は多いが実力が伴わないタイプだ。

 

 その後。このイマイチの文字の看板を書き直す後輩は現れなかった。今までは文字が上手いので後輩は、それを超えたいと思ったのだ。

 しかし、いきなりヘタだと挑む気にもならないようだ。いつの間にか看板は無くなっていた。

 

 山は高いから登りたくなるのだ! 

 

ううううう~ん! そろそろ、思い出せるエピソードが無くなった様だ! 

 

 

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