四十六年程前。中学一年生の私は柔道部に入った。いや、入ったというより、いつの間にか入ることになっていた。
私は運動が苦手だし、格闘技などやりたくなかった。
静岡県磐田市の城山中学(長澤まさみも出身)の一年生入学時のことだ。
同級生の海野君が「柔道部に入りたいんだけど、一人で行くの恥ずかしいから一緒に来てよ!」と言った。「いいよ!」
私は付き添いで柔道部の練習を見に行った。
すると、部長のK山さんという怖い先輩が「おう、二人共柔道着着てみろ! 受け身教えてやる」と言った。
「あの…僕は付き添いで来ただけです」
「付き添いでも、とにかく着替えろ!」
そのまま、手が赤くはれる程、受け身をやらされた。血管が腕に浮き出て青い血管の筋が見えた。腕がこんなになったのは初めてだった。
すると、部長のK山さんが言った。「明日から、本格的な練習な! 自分の柔道着を買ってこい!」
私はいつの間にか柔道部員になっていた。
小学生の頃。テレビの「柔道一直線」で日本柔道が東京オリンピックの無差別級でロシア選手に負けたことは知っていた。さらに、漫画「ドカベン」が柔道漫画として始まっていた。そんなこともあって、なんとなく拒否せず入ってしまったが「ドカベン」はすぐに野球に鞍替えしてしまった。
水島先生! それは無いよ! と叫びたい気持ちだった!
柔道を始めると、それまで肥満だった私の体形は半年でガリガリになってしまった。贅肉ばかりで筋肉が無かったから、それが落ちると骨と皮だけなのだ。
身長169で体重は49キロ。あまりに軽く柔道には不利である。
そのうち、体重のわりには筋力がついたのだが大きな相手を投げることは出来ない。
中学柔道は基本「無差別級」しかなかった(今はどうなのだろうか?)。49キロの私が80キロの相手とも試合しないといけないのだ。
私は軽いわりには意外と受けが強く、部長となった海野君には簡単に投げられるが、他の部員なら引き分けに持ち込む試合が出来た。
つまり、大きく投げる力はないが小さな相手は小技で転がして勝ち。大きな相手には逃げ回って、卑怯な動きで足を払うなど汚い手口を駆使していた(日本では嫌われる外国人選手のスタイルである)。
ちなみに、当時のルールには「指導」は無く、まだ、「有効」「効果」(現在は国際ルールで廃止)さえ導入前(有効・効果は三年時には導入された)。「逃げ回る」戦術がやりやすかったのだ。
しかし、何とかして勝ちたいと思った私は、藁をも掴む思いで本屋さんへと向かった。そして、手にしたのは「木村政彦著・柔道教室」である。
当時の私は、この木村さんが、あの、力道山と戦った木村とは知らず、単なる拓殖大学の先生だと思っていたが、この本には「崩し」の大切さ、技から技への「連動」方法など、詳しく書かれていた。
これは当たり前の戦法だが、田舎の中学柔道部員にはない考え方だった。
しかし、体の小さい私に「崩し」は無理である。引っ張ると自分が逆に崩れてしまう。今から筋力を鍛えても時間がかかり過ぎる。
この本のノウハウは、結局、体が強くなくてはダメなのだ。「柔よく剛を制す」という言葉があるが、私には「力の中に技がないと勝てない」と言った「空手バカ一代」の言葉が刺さった。
何とか、楽して勝てる方法はないのか? その時。木村先生の本に見たことのない技が載っていることに気づいた。
「袖釣り込み腰」だ。今ではオリンピック選手の定番の技だが、当時は見たことのない珍しい技だった。私の記憶では世界クラスの選手では、古賀利彦さんが「袖釣り込み腰」を出した最初の選手と記憶している。
私は全日本選手より早く「袖釣り込み腰」をやることにした。この技、何が珍しいかと言うと、右で組んでいるのに左でかける。逆に左で組んだ時は右でかける技なのだ。
実は、この投げ方をすると「受け身を取る手」の袖を持って投げるので、受け身が取れない技なのだ。
しかも、右で組んで左でかけると「相手が驚いて動揺する」のだ。力が無い者でも釣り手が利くという利点もある。
この「袖釣り込み腰」を始めると、初対戦の相手は「驚いて何が起こったか」分からない。私より強い相手に奇襲で一本とれるのだ。
私は初めての相手に強い変な組手の選手となった。
私は中学時代に初段を取った。初段になった同期は部長の海野と私だけである。私はそんなに強くなかったが、初対戦に強かった為に昇段試験で勝てたのだ。
ここまでは、良かったのだが…。いつも、卑怯な戦いをしてるのが嫌になってしまった。そこで、練習の時。無理して技をかけて大きな相手を投げてみようと思うようになった。
普段は無理なので背負わない強い相手を無理やり背負い投げしてみたのだ。すると、グキッ!という音がして崩れ落ちてしまった。
腰を痛めたのだ。この後遺症は二十歳を過ぎるまで続く酷いものだった。数日後、歩行が出来なくなり学校を休んだ程だ。
有名な整体師に診てもらい、何とか歩ける様になったが、とても柔道が出来る状態には戻らなかった。
中学卒業の時。顧問の先生が私に言った。「小林! 高校でも柔道やれよ! 49キロの中学生で初段とったのは、県西部でお前だけだぞ!高校は軽量級があるから、いけるぞ!」。先生は、同じことをうちの父親にも言ったそうだ。私は意外に期待されていたのかも知れない。
しかし、私にとっては大ショックである。高校からは階級制があることを知らなかったのだ。こんなことなら、無理に技などかけずに「高校」まで待てば良かったのである。
私の柔道生活は終わった。そして、古賀選手の登場で少しほくそ笑んだ!「袖釣り込み腰! 俺の方が先にやってたよ! 私は先見の明があるのだ!」
ちなみに私は、大学の授業で柔道をとった。腰を痛めているので不安だったが他の競技は人気があって入れなかったのだ。
私は東海大学である。当然、あの山下泰裕さんも練習している柔道場で講義が受けられるのだ。少し心が躍った!
先生は黒帯の私を見て「受け身」の模範をやれと指名した。先生に何回も投げられて受け身をするところを、他の学生に見せる役だ。
手が痛いし何も面白くない! しかも「お前、受け身ヘタだな~!」と言われる始末(実は受け身をとると一本になってしまうので、試合では受け身を取らない方が得なのだ!身を守るという意味では矛盾している)。
結局、大学の授業では試合形式の練習は無く、受け身と筋トレで終わった。
私の得意な「袖釣り込み腰」を出すことなく単位を頂いた。拓殖大・木村先生の本で学んだ技を東海大の道場で出す夢は消えた!(そんな夢は無かったが…)
「やっぱり、落語の練習をしよう!」そう誓った私だった!
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