放送業界のお話と落研と私的な思い出(瞳尻・黒舟)

「嗚呼!青春の大根梁山泊~東海大学・僕と落研の物語」スピンオフ・エッセイ。放送関係。業界のエピソードと近所の出来事

他大学OBの天国と地獄

 東海大学落語研究部だった私の、国学院の同期に、高座名・K・Aという男がいた。彼は、私と同じ静岡県の生まれで進学校出身。真面目で落語の知識が豊富な男だった。一年で最初にやった噺が「長短」で私と同じであった為、よく、会話をする仲だった。

 

 彼の下宿していた吉祥寺に遊びに行った時、泊まったことがあるが、その部屋には三笑亭可楽古今亭今輔などの、渋いテープが並んでいた。

 当時の落研の人気噺家は、現役では、志ん朝、談志、圓楽小三治、馬生、あたり。過去の名人では、志ん生、円生、が人気だったことを思うと、かなりの落語通である。

 

 国学院落研には、こういった渋好みの落語通が多かった。残念ながら、この男はプレーヤーとしては評価されなかったが、研究という意味では立派な男だった。

 

 また、青山学院の落研で一つ下に、音亭狂雀(おんてい きょうじゃく)と言う四国出身で上方落語を話す男がいた。

 狂雀君は、渋谷三大学では屈指のいい男。クラブでは会長まで務めた。多分、学生時代はさぞかしモテたことだろう。

 地味で真面目な国学院のK・Aとは、対照的な男である。

 

 卒業して二十年以上たったある日。国学院のK・Aから電話があった。新宿で会いたいというのだ。行くと彼は今ホームレスをしていると言う。

 あまりの変貌に言葉もなく、私は新宿の「思い出横丁」でご飯とお酒を振舞った。その日は、丁度、衆議院議員選挙の開票日だった。

 

 選挙速報を見ると、青学の一つ後輩、狂雀君が初当選を果たしていた。

 

 人生とは因果なものである。後輩が国会議員に当選したお目出たい日に、同期のホームレスが私にたかっているのである。

 

 後で国学院の先輩から電話があり。「K・Aは色々なところに電話してお金をもらっているから、渡さない様に」とのことである。

 私は、同期なので忠告は守れなかった。しかし、彼はどうして、そこまで落ちてしまったのだろうか?

 

 風の噂では、父親が多額の借金を作って亡くなった様だ。借金を相続してしまったのかも知れない。

 

 そして、数日後、彼は新宿から消えた。今は、どこで何をしているのか? 調べた先輩はいたが消息は分からない。

 

 どこかで、元気に生きていてくれると良いのだが…。

 

 今日のエッセイに笑いはありません。