放送業界のお話と落研と私的な思い出(瞳尻・黒舟)

「嗚呼!青春の大根梁山泊~東海大学・僕と落研の物語」スピンオフ・エッセイ。放送関係。業界のエピソードと近所の出来事

「落研の裏レジェンド!夢豚さん!」

 昭和55年。私が東海大学落語研究部に入部した時。四年生に頭下位亭夢豚(とうかいてい ムートン)さんと言う先輩がいた。
 
 夢豚さんは、見かけが恐く、近寄りがたい。
 そして、話し方も乱暴で恐い。私のイメージでは、ドラえもんジャイアン、もしくは、安岡力也さんに近いと感じた。


 一年生たちは皆、心の中で「ジャイアンや安岡力也って、本当に居るんだ!」と思った程だ(安岡さんは居るっての!)。

 

 夢豚さんは部室の前で、入りたての一年生に言った。
 「1年、集合~!整列~~!」

 突然の出来事に一年生は何だか分からない。四年生はOBなので、この手の命令は異例だからだ。すると、夢豚さんは言った。
 
 夢豚「いいか、俺たち落研は右翼だ!」
 私(心の声)「えっ!右翼なの?!」
 夢豚「今から、エールをきる!俺に続け!…返事は?」
 一同 「押忍~!」
 「フレーフレー!落研~!それ!」
 一同「フレーフレー!落研~!フレーフレー!落研~!」
 夢豚「よし!」

 

 何がよしだかまったく分からない。私は「右翼」と言う言葉が気になって三年生のおそ松さんに聞いてみた。
 「落研って右翼なんですか?」
 「あっ!夢豚さんは、ああいう人だから、気にしなくていいから…。深い意味ないから」

 

 我々、一年生は夢豚さんに恐怖を憶え、自分から近づく者は無くなった。

 

 しかし、この夢豚さんは、実は真面目で先輩に従順。「後輩には超強いが、先輩には超弱い」ルールを守る男だった。

 

 夢豚さんは毎日、千葉県の自宅から大学に通い。時間が無いのに、誰よりも寄席やホール落語会に通っている。これは「生の落語を観ないと上手くならない」と言う先輩の教えを守ってのことだ。クラブの行事の時などは、後輩の下宿に泊まり全て参加していた。真面目で不器用、そして、実は誰よりも優しい人なのだ。
 
 しかし、夢豚さんの真面目さが、後輩には恐さに転化されていた。

 

 ある部会の時。三年生の切奴(現・昇太師匠)さんの「爆笑」の高座練習を観た後、夢豚さんは言った。


 「俺は、お前らが羨ましい…。面白い間が、すぐ出来る…。俺は、どんなに練習しても、どんなに落語を観ても、出来ないんだよ…」


 何と! 半分泣きながら熱く語ったのだ。普通、高座練習の後は、部員がそれぞれ、改善点やアドバイスをするのだが、いきなり「夢豚さんの嘆きショー」になってしまった。

 三年生は困って「いや、先輩も四年生になって丸くなったから、面白みがで出てきましたよ」等となぐさめている。夢豚さんは純粋な青春ドラマみたいな人なのだ。私の好きなドラマ「俺たちの旅」なら「ワカメ」(森川正太)である(キャラは違うが)。

 

 それを見た、OBの反応は、寅さんに呆れるオイちゃんの様だ。
 「馬鹿だね~!」

 

 私は夢豚さんが、少し好きになっていた。近づくのは恐いけど、良い人なのだ。

 

 夢豚さんは千葉の自宅に帰らず、後輩の三年生・実志(現・テレビディレクター)のアパートで麻雀をすることも多かった。私も何回か一緒にやらせて頂いたのだが…。素直な性格の夢豚さんは、負けると段々乱暴になる。上がったら牌を投げつけられた一年生がいた程だ。


 しかし、私には分かっていた。これは、後輩に怒っているわけではなく、負けた自分に怒っているのだ。だから、夢豚さんは優しい。お金を出して「お菓子やカップラーメンを買ってこい!」と言うのも、この人だ。

 

 その日、私も夢豚さんも実志さんのアパートに泊まった。その時、私は替えのパンツが無かった。すると、実志さんは「俺のを履け」と、洗濯したパンツを渡してくれた。後輩としてはありがたく履いたのだが…。夢豚さんが言った。

 「お前ら、よく人のパンツが履けるな! 俺は絶対ムリだ!」

 何と!ワイルドな夢豚さんは、とても繊細で神経質な人だったのだ。


 我が部では「先輩のパンツを履けない後輩はダメだ!落語が上手くならない」と、メチャクチャな伝説があった(いや、3年のマー坊さんだけが冗談で私に言っていた)。
 
 そんなクラブの中で夢豚さんは、珍しい存在だった。多分、先輩に「俺のパンツを履け」と言われたら、泣きながら履くと思うが、我々後輩相手だと本音がでるのだ。

 

 私は夢豚さんが、また、好きになった。でも、近づかないけど…。

 

 夢豚さんは、オシャレでアイビーを基本とした、少し高級なモノを身に着けていた。人のパンツを履けないだけあって、スラックスにも線がピチリとついていた。ファッション的には青山学院的だ。
 青学落研のOB・料亭花柳(りょうてい かりゅう 現・アマチュア落語家・彦柳)さんと仲がよいのもうなづける。
 
 この青学的ジャイアンは…。いや、夢豚さんは落研がやっていた「プロレス研究会」でも、怪力レスラーとして活躍していた。

 

 私が一年生の時、雑誌「スコラ」が取材に来た。その時、夢豚さんはロープで文化部連合のワゴン車を引っ張るというパフォーマンスを見せ、写真が掲載されていた。しかし、私は夢豚さんのプロレスを見たことがない。雑誌用のパフォーマンスだった様な気がする。
 ちなみに、この時は3年の切奴(きりど・現・昇太師匠)さんもチョモランマ・切奴として鉄棒にぶら下がる写真が載せられた。一番大きな写真は実志さんのアップ。胸に千社札を貼り、満面の笑みでポーズをしていた。

 

 これは、OBになってからの話だが…。
 クラブOBの結婚式で盛り上がり、その日のホテルでの出来事を思い出す。

 

 ホテルの部屋でみんなで飲んで居ると、ドアを叩く音がした。どうやら騒ぎすぎて、隣の客から苦情が来たようだ。
 それを知った夢豚さんが私に言った。
 
 「黒舟! 兵隊集めろ!」

 

 兵隊とは後輩のこと。夢豚さんは隣の客と戦争する気のようだ。私は突然の徴兵に拒否して、兵隊を集めることはやめておいた。
 喧嘩などして殴られたら嫌だからだ。


 そのうち、夢豚さんも酔って寝てしまった。何事も起こらず良かった。兵隊を集めなくて正解である。

 

 この時、私は夢豚さんを、少し好きにはならなかった(当たり前だ!)。

 

 私は、こんな夢を見たことがある。映画「男はつらいよ!」のオープニングで寅さんが夢を見るシーンに似ているのだが…。
 落研の部室の前で、後輩の部員が泣いている。そこに、夢豚さんが現れる。

 「そこの若者!どうかしたのかい?」
 「彼女にフラれたんです」 
 「そうか、わかるよ!青春だな!」
 すると、夢豚さんは財布から三万円を出して!
 「これで、ト〇コ行ってスッキリしちゃえよ!」

 

 これは、本当に私の見た夢である。私の中の夢豚さんは、そんな人の様だ。この泣いていた後輩は、泣き止まない。別にエッチが出来なくて泣いている訳ではないのだ。
 
 チョット、空気が読めない優しさだが、私には、この優しさが、夢豚さんの魅力だと思った。そして、その不器用さが、好きになった。やはり「落研の裏レジェンド」である。

 

 夢の中の話ですから、夢豚さん、怒らないで下さいね!

 

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近所に「えんとつ町のプペル」が…

 自宅の近所を歩いていると、民家に横断幕で「えんとつ町のプペル」と書かれた弁当屋さんが出来ていた。

 

 お店の形式はまったくなしていない。民家の玄関に看板があり、西野さんの写真や「プペル」のイラストを使った宣伝がある。

 テイクアウトの弁当屋さんの様だ。販売車も止まっているので、出張販売もしているようだ。

 

 一度、弁当を買ってみようと思うが…。勇気が出ない。民家の玄関だから、気が弱い者には呼び鈴が押せないのだ。

 

 原作者・西野さんの写真もあるので許可をもらっての営業なのだろうが…。

 

 「えんとつ町のプペル」と弁当屋との関係がよく分からない。映画を観ていない私はなんとも言えないが、予告編をみる限り「弁当屋」は出てこない。

 メニューは普通のハンバーグ弁当などが並んでいる。まったく、不思議である。

 

 とは言え、一度、買ってみようと思う…。

 

 閉店するといけないので、なくべく早く買ってみよう。それには、勇気が必要だ!知らないお宅の呼び鈴のハードルは高い。

 

 「飛び込みのセールスマン」の苦労が分かった瞬間である。

 

 そうだ! まず、映画を観てみよう! あれ? 俺、「プペル」の宣伝戦略に見事にはまっているような気がする。

 

 春風亭一之輔のラジオのテーマで「えんとつの思い出」を提案してみようか? いや! いかん! 宣伝戦略にまたはまってしまう。

 

 と、ここまで書いて気づいたのだが、ホームページが有って、見ると「えんとつ定食」(ハンバーグだが)などを売っている。

 ちなみに、海のものを食べてはいけない町らしい。そこで「裏えんとつ町定食」として、エビフライ付きハンバーグがある。つまり、何でもありだ! 

 

 映画の公開が終わったら、どうするのだろうか? 絵本押しか? 別の作品への鞍替えか? 次なる展開が楽しみである。俺、この店の大ファンかも?

 

 

 

 

 

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電子レンジが壊れた!!

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壊れた電子レンジ一号。黄泉の国へと旅立った!

 

 


 以前のブログで昇太師匠に買ってもらった「電子レンジ」について書いたが(遡ってお読みください)、あのレンジが二日前に…。ブ~ン!バツッ!と音がして機能しなくなった。二十年以上使ったので寿命だろうか。

 

 オーブンレンジの「オーブン機能」は数年前に壊れていたが、いつに「レンジ機能」が壊れて、タダの鉄の箱になってしまった。

 

 思い出の品なので、捨てるのは惜しいがゴミとなった今、捨てざるおえない。断腸の思いで、近所の「ノジマ」へと行ってみた。

 

 見ると、まだ「新春セール」をやっていて、単機能レンジが5980円だ。単機能とはいえあまりに安い!

 壊れたレンジは25000円はしたと思う。時代の流れは価格を変えてしまうのだ。

 

 買えば壊れたレンジは無料で捨ててくれる。早速、購入。思い出の電子レンジは手押しの荷台に乗って引き取られて行った。

 「ありがとう! レンジ! 酒のお燗とジャガイモばかりチンしてゴメンよ!」

 メイン料理はほとんどコンロで作ったので、レンジはロクなものを温めていない。

 別れ際、そんなことが頭をよぎる。

 

 新品のレンジをセットすると、私は日本酒を一合お燗した。新人の試練として「まずはお燗」から入った方が良い気がしたのだ。

 落研の一年生の最初のネタは「寿限無」や「子ほめ」だった様に、レンジにも基本を教えなくては…。

 

 こうなったら、高座名を付けてやろう。

 

 例えば、頭下位亭志ん練治(とうかいてい しんれんじ)、頭下位亭珍野郎(チン!野郎)、頭下位亭料理テーブル回天(人間魚雷回天ふう)、頭下位亭温為雄(あたためお)…。

 う~ん! いいのが無い! ひとまず、温為雄にしておこう。

 

 「温め用~意!(正座用意ふう)チン!始め~!」

 「頭下位亭温為雄です。お燗つけさせて頂きます」とは言わない…。

 

 単機能電子レンジは、愛想が無い。

 

 

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東海大落研・憧れた先輩・レジェンド!

 昭和55年。東海大学落語研究部に入部した私に衝撃を与えたのは、憧れの先輩達である。2年先輩の頭下位切奴(とうかいてい・きりど・現・春風亭昇太師匠)さん、実志(じっし)さん、二代目・甘奈豆さんは勿論だが、実は同じぐらいリスペクトしている先輩が沢山いる。

 

 そこで、手前みそだが、わが校のレジェンドについて記すことにした。

 

 まずは、東海大落研の「中興の祖」といわれる伝説のレジェンドの思い出から。

 

 私より8年先輩に初代・独坊(どくぼう・12期委員長)さんという圧倒的な存在がいた。この12期には落語家の林家錦平師匠もいる。

 

 富山の進学校出身で、模試では県内のランキングにも入ったことがあるそうだ。

 うちのクラブでは伝統的に、進学校に進んだが遊んでしまった地頭の良い先輩にレジェンドが多い。

 この先輩は落語も面白かったが、何より飲み会や日常生活での会話が全て面白い。人としての魅力があるのだ。

 

 大学の文化部連合の他のクラブにも人気があり、当時の話を聞くと、各クラブの後輩が「今日、独坊さんに話しかけてもらえた!」と喜ぶ程だったという。

 もはや、ジャニーズのアイドルみたいな存在だ。

 

 当時、UFO超心理研究会に在籍していた、後の横溝正史賞作家・井上尚登(故人)さんによると「独坊さんと一緒の飲み会に参加するのが夢だった」という。

 

 あるOBによると、独坊さんはドラマ「俺たちの旅」のカースケ(中村雅俊)の様だったそうだ(顔は伊丹幸雄だが)。

 

 この先輩は大学の大スターだったために、文化祭の実行委員長を務めた。そして、文化祭にストリップを呼ぶと宣言して実行してしまった。

 私は当時のフィルム(多分、映画研究会所有)を見たことがあるが…。独坊さんが文化祭実行委員長として「文化祭…。何故ストリップかって?シャレだよ!シャレ!シャレに決まってるだろう」とコメント。すると、学生達が「おお~!」と大喝采している。

 まるでヒットラーの演説の様であり、何を言ってもウケるジャニーズの大物アイドルの反応である。

 

 「落研だから落語が上手ければ良い」と言ったレベルを超えた、存在自体がレジェンドだったのだ。

 

 部室に残るオープンリールのテープに「ジャズ落語」という音源がある。

 これは、独坊さんと、もう一人のレジェンド初代・甘奈豆(14期・委員長・文化祭の実行委員長も務めた)さんがジャズ研究会とコラボして会を開いた時のものだ。

 この会は学内ではなく、ホールを借りた大きなイベントだった。ジャズの間に落語が二席入る構成で、なんともオシャレな会だ。

 クラブの定例の会と別に個人的に大きな会を開くのは容易ではない。文化部連合でいかに大きな存在だったかが伺える。

 この時のポスターが部室に残されていたが、デザインもかなりオシャレなものだった。

 

 この先輩・独坊さんは大学に8年間いた強者だ!しかも、8年いて中退するという落研最高峰の卒業となった。

 

 つまり、私はこの先輩と入れ違い入学。学生時代の接点はない。しかし、OBとして何度か富山から遊びに来ると、圧倒的な存在感で爆笑をとっていた。

 

 私が一年の時。学内の落語会に訪れた独坊さんが着物を出した。「俺、出るよ!」

 

 私達一年生はどよめいた! 初めてレジェンドの落語が観られるのだ。

 

 高座に登場した独坊さんは、古典落語の「おし(漢字が出ませんでした)の釣り」を始めた。噺は適当にごまかしながらやっていたが、存在感とお客のひきつけが凄い。とにかく、みんなが身を乗り出して聞いている。

 とても表現が難しいが、これは「上手さ」や「面白さ」を超えたカリスマ的な魅力である。

 

 この時の噺の中で覚えているギャグが一つある。

 兄貴「そう言う時は、相手の予想のつかないことを言うんだ!」

 与太郎「そんなこと言えら~!」

 兄貴「何ていう?」

 与太郎「ハエハエ!カカカ!キンチョール!」

 

 客席が沸いた! この「ハエハエ!カカカ!キンチョール!」は、当時のCМの文句。三遊亭円丈師匠と阪神タイガースの掛布選手が出演して話題となっていた。

 

 この先輩は、現代の流行を取り入れる時代感覚があるからレジェンドになったのだと思う。

 

 その日の飲み会は、やはり、独坊さんのワンマンショーだった。小田急相模原の焼き鳥屋「秀吉」(現在は無い)が爆笑に包まれていた。

 この人が来ると、あの、切奴さんも「聞き役」に回ってしまう。

 

 散々盛り上げた独坊さんは、誰よりも先に酔いつぶれて店で寝てしまった。

 聞くと、いつもそのパターンで酒を浴びる様に豪快に飲んで騒いで、誰よりも先に寝てしまうそうだ。

 

 今、思い出したが…。当時、流行ったルービックキューブ落研で初めて揃えたのも独坊さんだった。レジェンドはやはりどこか違うのだ(実はオモチャ屋でアンチョコを売っていたらしい…)。

 

 

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磐田市立城山中学・柔道部時代の初段試験!

 昭和51年頃。私は静岡県磐田市立城山中学校の柔道部の三年生だった。くどい様だが、この中学のはるか後輩に女優の長澤まさみさんがいる。

 

 身長169・9センチ、体重49キロとガリガリの私は、無差別級しかない中学柔道では、常に大きな相手と不利な戦いをしていた。

 そのため、逃げ回り、相手が無理に攻めた時に返しを入れたり、誰もやらない奇襲技でポイントをとったりと、卑怯極まりない海外スタイルの柔道をしていた。

 

 そんな私は、無謀にも柔道の初段の試験に挑んでいた。有段者の試験は中学ではやらない関節技と閉め技がある。私は経験がないのでやらないが、相手はいきなり首を絞めたり、アントニオ猪木でお馴染みの「腕ひしぎ逆十字」をかけたりするのだ。

 

 この試験に何度か通っていると、顧問の先生が私に言った。

 

 「お前、何回か通ってポイントとってるから、明日、三人倒せば初段とれるぞ」

 「えっ! そうなんですか?」

 

 柔道の初段の試験は、一度に六人続けて倒せば(六人抜き)もらえるのだが、マイルの様に数回に分けて一人ずつ倒してもポイントが溜って行くらしい。

 

 私は本番に備えて、今までより引手を強く引く「体落とし」を使うことにした。ある日、意識して思いっきり左の引手に力を入れると相手が投げられることに気づいたのだ。

 これは、当たり前の基本だが、三年になるまで私は気づかなかった。いつも、なんとなくかけて失敗していたのだ。

 普段は背負い投げがメインだが、初段試験では、ひらめきで新技を試すことにした。

 

 試験の初戦。組んだ瞬間に強く引く「体落とし」をかけると…。体重の軽い私は、自分が引っ張った分だけ体制を崩されて後ろに倒れそうになった。相手は投げられまいと後ろに強く引いたのだ。

 これはまずいと、とっさに反転して相手に足をかけて後ろに大外掛け風に返した。相手は逃げたので、片足でケンケンと追って行って、もう一度足をかけると、大きく倒れた(山下泰裕さんがやるケンケン内股の大外バージョンだ)。

 審判「技あり!」の声がした。

 

 この時は、投げた私の方が驚いてしまった。初めてかけた技だし、後ろに崩れた時にアドリブで後ろに倒したのは初めてだったからだ(前に投げるフリをして後ろに倒すことはあったが)。

 

 相手も驚いたのだろう。次に背負い投げをすると簡単に一本となった。相手は、また、後ろの技が来ると思って、体重を前にかけてきたのだ。さっきの技が伏線となって大きな相手を投げてしまったのだ。

 

 次の相手は、強く引く「体落とし」で簡単に「技あり」。そのまま押さえ込んで勝ってしまった。

 

 三人目は、一番弱そうな相手だったが、いきなり腕を取られ「腕ひしぎ逆十字」で一本とられてしまった。

 

 私はこの時。引手の左腕を負傷してしまった。関節で腕がどす黒く血でにじんでいる。骨は大丈夫だが筋肉を切っているようだ。

 引き手が弱く利かなくなっていた。

 

 数分後。二戦目の相手とは引手が弱いため、決め手の技が出ずに引き分けてしまった。

 「三人倒せば初段がとれる」と言われていたので、二勝一分け一敗では、ガッカリである。

 

 その後。経験の為に筆記試験も受けたのだが…。問題集も持っていない私には何も分からない。選択問題なので適当に書いて出したが酷い点のはずだ。

 

 しかし、昇段試験の結果が発表さると、私の名前が呼ばれた。一勝たりない筈だが、勝った内容が良かったことと、強い相手を投げたこと、そして、筆記試験は奇跡的に満点だったという(運の無駄遣いだ!)。

 

 後日。私は中学の朝礼を楽しみにしていた。何故なら柔道、剣道の初段になると朝礼で、壇上に上がり校長先生から証明書を渡してもらえるからだ。

 

 しかし、何か月たっても朝礼で私の証明書授与はなかった。すると、ある日、柔道部の同級生・O君が私のことろに初段の証明書を持ってきた。

 聞くと、彼が初段の試験に行ったら「同じ中学だから渡して」と、主催者に言われたという。

 そういうものは、直接郵送されるのかと思っていたので意外だった。私はそのまま持ち帰ったので、朝礼の授与はないまま卒業となった。

 

 これは、本当に今でも不思議である。もう一人の初段・海野君は朝礼で校長から授与されているし、剣道部の初段も同じである。

 何故私だけ授与されなかったのだろう?

 

 私が卒業してから、中学校に行くと校舎と校舎の通路に卒業生の有段者の名前が木札でかけられていた。それを見ると…。何と! 私の名前だけない。学校側は私の初段を認知していなかったのだ。

 

 今思うと、他の者は初段の証明書が顧問の先生に渡り、そこから校長に渡り「授与」となっている様だ。

 何故か私の時だけ、同級生が貰ってきたので、その手順がなかったのだ。

 

 何故なのか未だに不明のままである。郵送し忘れた関係者があわてて同級生に渡したのかもしれない。

 または、何も分からず筆記百点をとったバチかもしれない。

 

 しかし、顧問のO先生は私の木札がないことを何故学校側に言ってくれなかったのだろう? 気づかない筈はないのだが…。何か大人の忖度があったのか? 謎は深まるばかりだ!

 

 城山中学の通路には今も有段者の木札はあるのだろうか? 学校関係者の皆さん、私の名前抜けてますよ! 

 

 

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東海大落研の「東楽亭」の看板!

 昭和55年。私が東海大学落語研究部に入部した時。部室入り口の上にはベニヤ板で作られた「東楽亭」と言う大きな看板があった。

 

 この看板はしっかりした橘流寄席文字で書かれている。そのうまさは一目でわかる程だった。

 この文字を書いたのは、14期の楽陳さん。寄席文字の上手さと、書く速さが伝説となっているOBだ。

 

 元々「東楽亭」とは文化祭の時だけ使うもので、我々の亭号ではない(亭号は頭下位亭)。何故か文化祭の時だけ「東楽亭富士見寄席」と名乗って公演していた。

 大学から富士山が見えるのでついたと思われるが、何故文化祭だけなのかは不明である。

 

 私の入学時に委員長(部長)だった二代目・甘奈豆さん(三年)が、この東楽亭の文字がいかにうまいか説明してくれた。

 そして、見上げながらボソリと言った!「でも、俺の方が上手いけどな!」

 その目が輝いた!

 

 「黒舟! 裏からベニヤと角材持ってこい!」

 

 材料を集めると、ベニヤに角材で枠を作り横長の看板を作った。

 

 「墨を持ってこい!」

 

 集中すること三十分程。突然、二代目・甘奈豆さんの筆が動いた!

 

 「よし! 書くぞ!」

 

 すると一気に書き上げた。その姿は何かが乗り移っている様に近づきがたかった。

 

 「できた!」

 

 見ると、以前の文字より線の太い、しっかりした文字だ!

 

 「いいか、黒舟! 寄席文字はお客様が一杯入る様にすき間を少なくするんだ。今までの字は上手いけど線が細いだろう? それでは書道だ! 俺のは橘流家元・橘右近の文字を模しているから太くて丸いんだ! どうだ! 尊敬したか?」

 

 私は別に尊敬はしなかったが、大したものだと思って見ていた。思うに、寄席文字を担当する人は、何か部室に自分の痕跡を残したいのだと思った。「東楽亭」の看板を書けば、その後、ずっと部室の正面に飾れるのだ。

 

 その二年後。私が三年生の時。同期の委員長だった我裸門が看板を見上げて言った。

 

 「この字、上手いな! よし! 俺が書き直そう!」

 

 上手いなら書き直さなくていいのだが、この男も、自分の字を残したかったのだろう。一年生に額を作らせ、すぐに筆を走らせた。

 

 この男。何の集中もなく、スラスラと適当に書くのがスタイルだ!

 

 「できた!」

 

 見ると驚いた! まあまあ、上手いが…。とても、今までの文字に勝てない。私が観た三枚の看板では一番ヘタクソだった。

 

 この男、落語もそうだったが蘊蓄は多いが実力が伴わないタイプだ。

 

 その後。このイマイチの文字の看板を書き直す後輩は現れなかった。今までは文字が上手いので後輩は、それを超えたいと思ったのだ。

 しかし、いきなりヘタだと挑む気にもならないようだ。いつの間にか看板は無くなっていた。

 

 山は高いから登りたくなるのだ! 

 

ううううう~ん! そろそろ、思い出せるエピソードが無くなった様だ! 

 

 

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