放送業界のお話と落研と私的な思い出(瞳尻・黒舟)

「嗚呼!青春の大根梁山泊~東海大学・僕と落研の物語」スピンオフ・エッセイ。放送関係。業界のエピソードと近所の出来事

ダメダメ詐欺が来た!

 三十年程前の事。私が世田谷区経堂の女子高前のアパートに住んでいた頃。

 

 珍しく呼び鈴が鳴った。当時は今と違って宅配など頼むこともなく人が訪ねて来るのはまれだった。

 出るとスーツを着た二十代の男が名刺を差し出した。「土地を売ってます。話だけ聞いて下さい」。

 私は教えてあげた「このアパートに住んでる人で土地を買う人は居ないと思いますよ。もっと、高級なマンションとかに行ったらどうなの!」

 すると、男は「いえ!話だけ聞いて下さい」と譲らない。すると、後ろから年配の男が来た。

 

 「これは、うちの新入社員がすいません!何かありましたか?」

 「別に何もないけど、土地売るなら他のマンションに行った方が良いですよ」

 「チョット。説明していいですか?」

 

 二人は家に上がって来た。男二人は資料を出すと、「千葉県の土地が今お買い得なんです」と言い出した。私はあきれて…。

 「あのね~!この間取りを見て!台所四畳半、居間六畳だけのやっと風呂が付いてる物件ですよ!土地買う人がいると思いますか?」

 「いや、そういう方がお金を貯めているんですよ!しかも、この千葉の土地を見て下さい。今は格安ですが、この地図の様に高速道路が通る予定で地価が高騰するんです」

 

 地図には手書きで高速道路の予定が書きこまれている。

 

 うわ~! 完全にサギである。私は正直なので素直に言った。

 

 「あのね~!値段が上がると分かってたら、売る訳ないでしょ?あなたの会社で持ってて儲ければいいじゃないか」

 「いや、うちは決算なんで皆様に儲けてもらおうと…」

 「あのね~!詐欺にしても手口がヘタ過ぎるよ!しかも、飛び込みのセールスで土地を買う人が居ますか? 騙されるとしてもお年寄りでしょう? あんた!儲ける気ないでしょう? 売れなくても給料だけ貰うタイプの仕事の仕方じゃダメだよ!」

 

 これでは、まるで私が上司である。

 

 上司の男は「はあ…帰ろうか!」若手「はい!お邪魔しました!」

 

 玄関を出ると二人のもめる声がした。「なんでこんなアパートで営業してんだよ!俺は、向こうのマンションに行けって行っただろう! 変な奴に捕まっちゃったじゃないか!」

 「すいません! ほんとにたちの悪い奴でしたね!」

 

 私は思った!「ダメだ!こりゃ!」

 

 この二人では詐欺まがいの営業はとても出来ない。

 

 私は放送作家という仕事柄、この手の出来事が大好きだ! 違和感のあるものに遭遇すると、ワクワクする。

 実は、この物件に住んでいる時…。もう一人記憶に残るセールスマンが居た。

 

 それは、次回、発表する予定である。

 

 

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約40年後の告白!今だから話そう!

 東海大学落研時代。私は副委員長としてクラブ行事の申請書などを提出する係をしていた。

 南新宿・山野ホールで開かれる「年忘れ落語会」では、街頭でプラカンを持って呼び込みをする為の申請を警察署に提出。

 公的な許可を得ての「呼び込み行為」だった。

 

 落研は皆様が思う程いい加減な団体ではないのだ。

 

 これは、学内の活動でも同じである。大学に張り出す「新入生勧誘」「落語会のお知らせ」等の看板も公文書を大学に提出しないと設置できない。

 公文書は保存用と二枚作り、本格的な割り印(東海大学落語研究部)もして提出するのだ。これは、マンションを借りる時の契約書の様なもので、詳細が記されている。

 

 我がクラブでは、毎年、春に「渋谷三大学落研スポーツ大会」を開催していた。

 勿論、この時もグラウンドの使用許可をもらっている。

 

 私が二年生の時。ラグビー部の主将の印鑑入りの使用許可書を申請した。その曜日に練習が無ければ「頼み込んで、判を貰う」のだ。

 

 当日。我々三大学(青山学院、國學院東海大)の落研ソフトボールで対決していると…。ラグビーボールを持った大男が二人現れた。

 そして「お前ら、誰に断ってここでソフトやってるんだ!練習するから帰れ!」と怒っている。

 そこで、私はラグビー部主将の直筆サインと印鑑入りの許可書を見せた。

 

 すると、その男達は不満そうにしながらも帰って行った。私は胸をなでおろした。

 

 しかし、落とし穴は…。三年生になった翌年である。

 私がラグビー部の主将に許可のハンコを貰いに行くと「許可は出さない!そんな伝統はない!」と強硬に断ったのだ。

 見ると、昨年、許可書を見せられて帰って行った男の一人が主将になった様だ。

 「日曜に個人練習をする者もいる。落研などには貸せない!」と言うわけだ。

 

 私は頭を抱えた。去年、チョット強気に許可書を見せたのがアダとなってしまった。

 

 もし、グラウンドの許可がとれずにスポーツ大会が中止になったら…。うちの恐ろしいOBが何を言うか分からない。

 多分、歴史に残る「ダメ幹部の代」として、一生笑いものにされるだろう。

 

 しかも、OB達は「今年はサッカーもやろうぜ!」等と言っている。

 体育会は横の連携があるのだろうか? 「サッカー部」「バレー部」「バスケ部」などの許可も取れなかった。

 

 これは、やばい!

 

 私は無い知恵を絞って、近所の小学校へと向かった。職員室を訪ねて校長と面会し「運動場を使わせて下さい」とお願いしたのだ。

 すると校長は不思議そうな顔をして「だって、東海大に大きなグラウンドが沢山あるじゃないですか。こっちが借りたいぐらいですよ。うちは公立ですから貸せません!」

 

 確かに校長の言うとおりだ。体育会ならまだしも「落研のリクレーション」では理由が弱すぎる。私が校長でも「絶対貸さない」パターンである。

 

 さあ、困った! そこで、私は一年生に「バスケット部」の監督の息子がいることを思いだした。

 その男に頼んで父親に許可を貰おうとしたのだ。監督の許可なら主将より強い。とにかく体育館での「バスケット」だけは出来るのである。

 父親の監督の返事は「許可書のハンコは押せないが、その日、練習は無いので、使っても怒られない」とのこと。

 

 ここで私は腹をくくった。「バスケット」だけでもできれば、スポーツ大会の中止という最悪の展開だけは免れたのだ。

 

 よし!許可なしで全て強行して、ダメだったら土下座で謝ろう。

 

 許可をとれなかったことは、同期にも言わず、見切り発車の開催となった。

 

 まずはメインの「ソフトボール」。幸い体育会の人は誰も来ていない。私が上の空で内野の守備をしていると正面にライナーが来た。私はヘタなのでグラブに入ったが落としてしまった。二塁の先輩が「へい!」と言ったので渡すと、何と!ダブルプレイが成立してしまった。

 すると、青山学院からクレームが入った。「黒舟!汚いぞ!わざと落としたろう!」

 見ると火の見家はん生(現・大阪の自称フリーターアナの森たけし)さんだ。

 私は運動オンチなので、わざと落としてダブルプレーにするなんて、そんな器用なことは出来ない。

 クレームも笑いに代える落研としては、少し中断して喧嘩のアドリブコントなどが始まる。

 私は「そんなのいいから、早く試合を終わらせてくれ~!」と心で叫んでいた。

 

 ソフトボールには上手いAチームとヘタなBチームがあり。三大学六チームのトーナメントである。私はヘタのBチームだった。

 東海大のAチームは、高校時代・ソフトボール部で静岡県優勝の切奴(現・昇太師匠)さん、中学時代野球部の実志(現・ディレクター・山崎氏)さん、そして、徳島の高校でソフトボール部のピッチャーだった珍笑君(現・徳島でコンビニ経営)など、守備の連係も可憐だ。

 綺麗なダブルプレイに「おお~~!」と歓声があがる。

 

 青学には元高校球児の音亭狂雀(おんてい きょうじゃく)という一年下の後輩が居たが、守備の上手さ、打撃の力強さは群を抜いていた。

 実は、彼は現在国会議員。農林水産副大臣を務めている。

 

 面白いのは静岡県優勝の切奴さんは守備は良いが全然打てないことだ。ほとんどが内野ゴロでアウトになっている。本当のソフトの打ち方は草ソフトでは通用しないようである。

 後に分かったのだが、切奴さんは守備要員だったことが発覚した。

 

 しかし、その日の私はついていた。その後のバスケットも問題なく行われた。完全にセーフである。サッカーは結局やらなかった様な気がする。

 

 競技を終え、みんなで大学の池に落ちた! 何故か伝統で意味もなく最後は池に落ちるのが決まりだ。

 いかに面白く落ちるかもポイントとなる。私服なので本当は落ちたくないのだが、「つまらない奴」と言われない為には、落ちるしかないのだ。

 

 みんなで池に落ちて、親睦は深まった。この日ばかりは、オシャレな青学もずぶ濡れだ。OBの芸術院せん生(漫才・青山一浪・二浪の森たけしさんの合い方)さん、免亭回丈さん(学生落語の爆笑王)。さらに國學院の万年堂まん丸(現・脚本家・稲葉氏)さんなども、喜んで落ちていた。

 

 ちなみに、池落ちの許可だけは、伝統的に貰っていない(そんな許可はおりない)。

 

 現在は、このスポーツ大会も三大学のきづなもなくなっている様だ!

 

 

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私の家にある思い出のスピーカー!

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 我が家に思い出のスピーカーがある。これは、三十年程前に春風亭昇太さんから貰ったステレオのスピーカーだ。

 アンプとチューナーは壊れて今は無い。

 

 その時、一緒に昇太さん所蔵のレコードを譲り受けた。昇太さんは現在、真空管アンプでレコードを聴き、アナログレコードのラジオまでやる「レコード道楽」である。

 このステレオとレコードを貰ったのは、まだ、師匠が二つ目の頃。部屋が狭くなって私に譲ったのではないだろうか?

 私は今、デジタルのアンプに繋いでいるがスピーカーは現役で使っている。

 

 実は、このスピーカーは昇太さんが落研の学生時代(切奴)にテレビに出た賞金で買ったステレオのスピーカーである。

 番組はテレビ東京の「ドバドバ大爆弾!」。所ジョージさんが司会で、素人が芸を見せた後金額が査定され、その後のゲームに成功すれば賞金が最高百万円貰える番組だ。

 

 この番組には、素人時代の、とんねるず野沢直子、青学落研の青山一浪・二浪(一浪は大阪の人気フリーアナ・森たけし)なども出演している。

 

 昇太さんは落研同期の実志(現・ディレクター・山崎氏)さんと二人で一発芸を披露。賞金八十万円を獲得した。

 そのほとんどは、部員に奢ってしまったそうだが、唯一、中古のステレオを購入したのだ。ちなみに合い方は、当時、学生としては贅沢な電話を引いたそうである。

 

 この歴史があるだけに、スピーカーは機能している限り使うつもりだ。写真では分からないが、昔のスピーカーはバカデカい! 高さも六十センチぐらいある。それだけにパワーが大きく音は良い。

 アンプが壊れた時、私は現代のアンプを買ったのだが、繋ぐと、すぐに音が出なくなる。今の製品よりΩが大きく対応していないのだ。仕方なく私はネットで中国製の三千円程のアンプを購入した。すると、問題なく再生できた。安物の十センチほどの小さなアンプはリミッターなどついていないのだ。

 そして、意外にも音が良い。少しパワー不足だが普通の音量なら問題ない。恐るべし中国製である。

 

 おかげで、最新のステレオは別にスピーカーを買って、別の部屋で使用している。

 

 譲り受けたレコードは時代を感じてとても面白い。なぎら健壱、ジャズ、高石ともやとナターシャセブン、憂歌団、など。学生時代の昇太さんの趣味が分かるからだ。

 私は吉田拓郎かぐや姫、など世間の王道のレコードを持っていたが、師匠は昔から少しサブカルよりだ。

 共通するのは、今聞くと懐かしく心地いい。BGМとして邪魔にならない音楽が多いような気がする。

 

 昇太さんが二つ目の頃。TBSの深夜番組「よたろ~!」で人気に火が付いた時、審査員の一人に、なぎら健壱さんが居た。

 学生の頃、レコードを聞いていたスターに「面白い!」と言われて、さぞかし嬉しかったのではないだろうか。

 

 

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東海大落研・先輩の書いた寄席文字!

 東海大学落語研究部の先輩達は、皆、寄席文字、三味線、太鼓が出来た。私の様なダメ部員は何も出来なかったが、各代にスペシャリストが居て行事の時は腕を振るうのだ。

 

 新入生勧誘や落語会の看板、落語会のめくり、ホール落語のパンフレット、そして、夏合宿の最終日に開かれる「落研オリンピック」の表彰状も寄席文字担当の先輩が徹夜で書いていた。

 シャレの大会とはいえ、「マラソン」「卓球」「バドミントン」「岩石投げ」等、大会が終わらないと入賞者の名前を入れられない。

 つまり、寄席文字班の先輩は一週間の合宿で疲れ切った状態で深夜に表彰状を書くのだ。

 下に載せられた写真は、我が家から発見された40年以上前の賞状である。

 

 受賞者は一年生の切奴さん(春風亭昇太師匠)マラソン優勝。寄席文字を書いたのは三年生の委員長・獅子頭柳家一九師匠)さんである。

 

 今見て驚くのは、丁寧に書かれていることだ。四年後の私の代の寄席文字担当など、走り書きの汚い字で書いていたが、この賞状をみると、丁寧で字が上手い。

 

 桂竹丸師匠の話では、獅子頭さんは当時「アマチュア落語関東一と言われていた」そうだ。演技に拘る先輩は、やはり、寄席文字にも拘っていたのだと思う。

 現在も絵手紙で有名な師匠だけに、バランスの良さやデザイン的なセンスを感じる。

 

 合宿では部員全員に一枚は賞状を授与する。「正座がつらかったで賞」「先輩に怒られて辛かったで賞」など、スポーツで活躍できない者には、合宿中の本人の出来事に賞をあげるのだ。

 その為、賞状は40~50枚も書かなくてはいけないのだ。この作業は殺人的である。

 

 これから、四年後の私が三年の時の夏合宿では、寄席文字担当の委員長・我裸門(ガラモン)から泣きが入った。

 「間に合わないから、黒舟も書けよ!」

 

 私は寄席文字担当ではないが、ヘタクソながらそれっぽい字が書けたので手伝うことになってしまった。

 翌日、私のヘタクソな賞状を貰った後輩達は…さぞかし喜べなかったことだろう。後輩は文句が言えないが、過去の賞状との違いは一目で分かる。

 

 今日、我が家で発見された下の賞状は字が上手いので保存されていたのだろう?

 

 多分、私の書いたヘタクソな賞状は誰も保存していないだろう。もし、持っている後輩が居たら、教えて欲しい。

 年代的には、昭和57年当時二年の独尻、一団楽、珍笑、扇平、雷念、丈治、ぽてと。一年生の太己、朝陳、あたりが持っているかもしれない。

 しかし、半分は我裸門の字なので「まあまあ見れる」。「何だ!これ、超ヘタクソだな~!」と思ったら、私の字である。

 

 もし有ったら、どれだけヘタだったか確かめてみたいものだ。

 

 ちなみに、切奴さんの落研幹部選挙の時の立候補証明書も発見された。選挙管理委員長の名は頭下位亭夕菜と書かれている。懐かしすぎて、もう捨てられない。

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最も古い記憶…

 人は赤ちゃんの頃の記憶が無い。私もオシメの感覚やガラガラであやされた記憶は皆無である。

 

 個人差はあるが人の記憶は幼稚園ぐらいからだと思う。私の一番古い記憶は、炎を持った男が走る祭りを父親に肩馬されて見た記憶だ。しかし、これはうろ覚えで夢かと思っていた。子供の頃、父親に聞くと「多分、それは東京オリンピック聖火ランナーを観に行ったんだ」と言う。

 

 前回の東京オリンピックの聖火は私の故郷・静岡県磐田市も通過したようである。

 これは、三才の記憶である。

 

 この記憶を除くと、しっかりした記憶は五歳。自宅の庭にある蟻の巣を見つめながら「明日から幼稚園か…。嫌だなあ!」と涙がこぼれたのが最初の記憶である。

 

 私は集団で何かをやらされるのが苦手だ。幼稚園に入るのは軍隊の召集令状が来たのと同じ感覚で受け止めていた。

 さらに、勉強が嫌だった。幼稚園では勉強はないが小学校と繋がるスタイルは強制収容所の様に重い空気を感じていた。

 

 他の子供達は「幼稚園に行くのが楽しみ!」と言っていたが…。私にはまったく理解できない。

 家でテレビを見て、「鉄腕アトム」や「鉄人二十八号」の漫画を繰り返し読む今までの生活が幸せだったからだ。同じ「鉄腕アトム」を見ても日によって感覚が変わり、原作にはないバックストーリーを考えて一人ニヤニヤする(字は読めないので絵で想像していた・自分の名前だけ「ひらがな」で書けたが)。

 そんな生活が好きだったのだ。

 

 蟻の巣を眺めながら、ただ働かされている蟻を見て、明日からの自分を重ね合わせていたように思う。

 「嫌だ! 学校なんて! 性格の悪い奴らが居るに違いない」

 

 テレビではよく「受験戦争」の話題をやっていた。それを見た私は、地獄絵図にしか見えなかったのだ。本当は勉強は分かると面白いのだが、五歳の私には理解できなかった。

 

 幼稚園に行くと、私が思った通りの強制収容所に見えた。私が本当のことを言っても先生(保母さんを先生と呼んでいた)は「嘘をつきなさい」と殴るのだ。

 

 先生は私が「給食のパンを食べずに机に入れている」と言う。私はそんなことはしていない。私が否定すると「嘘をいいなさい!」と私の机の中に手を入れた。「これは、何?」。何と!干からびたパンがで出来た。

 私は殴られた。私はパンを机に等入れていない。

 

 翌日。給食の時。また、先生が「机を見せなさい」と言う。先生が見ると、また、パンが出て来た。またも、こっぴどく怒られた。

 「何故大人は本当の事を言っても信じないのだろう?」と不思議だった。

 

 翌日。また、先生が私の所に近づくと、私の横からパンを机に入れる手が見えた! 「あっ!こいつだ!」。それは、同じクラスのKだった。

 今度は先生も、その瞬間を見ていた。私は叫んだ!「ほら、見ろ! こいつが入れてたんだろうが!」。

 先生は言った「小林君! 言葉使いが汚いよ!」

 (心の声)「こらこら!そっちじゃないだろう…。俺の連日の濡れ衣をどうしてくれるんだ!」

 

 しかも、先生は驚きの行動に出た。Kを怒らなかったのだ。そして、私に一言も謝らなかったのだ。

 「なんだ!こいつら!平等って何なんだ!」

 

 いたずらっ子のKは父が学校の先生で母はピアノの先生という、教育に五月蠅い家庭。先生にもプレッシャーをかけていたのだろう。

 私の父は専売公社勤め。親はお人良しで先生に文句などは言えない性格だ。

 

 今思うと、Kは自分でパンを入れておきながら、先生に「小林君はパンを食べず机に入れている」と告げ口していたと思われる。そうでないと、先生が私を疑う筈がないのだ。

 まったく酷い性格の男だ。

 

 Kは頭が良く、その後。小学校、中学校と優秀な成績だったが、授業を聞かない、お年寄りの先生Iをバカにして邪魔をする生徒として有名だった(この先生は私の親戚。一族で被害を受けたことになる)。

 授業中、遊んでいるのに先生が指すと、スラスラと正解を答えてしまう。先生も成績がいいので許してしまう。そんな男だった。

 

 聞くと彼は、日曜に一週間分の勉強を親に教わって、授業は遊んでいることが分かった。これは大変な頭脳と集中力だが、他の生徒にとっては迷惑だ。

 

 数年前。中学の同級生と飲んだ時。Kが亡くなったと聞いた。

 懐かしい様な、悔しい様な、不思議な感覚に見舞われた。

 

 大人になってKも変わった筈である。私は中学以来会っていないが、今、会ってあの時のことを聞いてみたかった。

 今の私なら、パンを机に入れられて泣くこともない(当たり前だ!)。むしろ、私が突っ込みを入れて楽しい会話になるだろう。

 

 できればお葬式に行って、棺にパンの残りを入れたかった。おっと!これは、実際には行ってもやりませんが…。

 

 もう、同級生が亡くなる年齢になったのだ。昔の知り合いに早めに会っておいた方が良いみたいだ。

 

 人生最後の記憶は何になるのだろうか?

 

 おいおい! これじゃあ終活だよ! 

 

 

 

 

 

 

 

 

専修大・國學院・早稲田・甲南・上手すぎる先輩達!

 昭和54年~56年。私が東海大学落語研究部の2年から三年生の頃。専修大学が主催する大学の競演会があった。

 

 新宿のNCホールという半分外みたいな小さなホールで年に何回か開かれていた。この会には今まで2年先輩の切奴(きりど・現・昇太師匠)が東海の代表としてゲスト出演していた。その会に「今度、お前行って来いよ!」と、私が指名されてしまった。

 その時、私は二年生の秋頃。ネタは3つしかない。しかも、ウケるのは一本だけだった。これは、とても不安である。

 もし、他の大学が私より先に同じネタをやったら、ウケるネタがないのだ。

 

 不安を抱えたまま、当日、会場へと入ると…。そこでは、何と! 東海落研の1年先輩・太田スセリ(現・ピン芸人・1年で退部)さんが司会をしていた。

 

スセリ(高い声)「ねえ! 黒舟君! 何やるの?」

私「「饅頭怖い」をやります」

スセリ「あら! 切奴さん仕込み?」

私「全然違います」

 

 「饅頭怖い」は切奴さんが学生日本一になった時の噺だが、私がやり方をマネするとシラケるので、自分なりのやり方でやっていた。

 

 他の大学は、3年、4年が多く、さらに、専修大のOBが数人出演していた。社会人落語(天狗連)で活躍している様だ。

 

 私が高座に上がる前。専修の学生がきいた。

 「出囃子は何にしますか?」

 「じゃあ、祭囃子で」

 「はっ? それなんですか?」

 「三平師匠の出囃子で」

 「ああ、屋台囃子ですね」

 チョット間違いを正すような言い方だったので、私の知識が足りないような感じになってしまった。

 私の2年先輩のおそ松さんに「屋台囃子は祭り囃子ともいう」と教えられていたので、そのまま言ったのだが…。

 

 「まあ、いいか!」少し動揺しながら、高座に上がると…。これが、ガンガンとウケた。声が大きくてスピードが速いだけだが、はつらつと楽しそうにやっていたので、新鮮に映ったのだろう。私をバカにしていた学生の態度が変わった。

 「凄いパワーでしたねー!勉強になりました!」

 急に態度が大きくなる私…。「いや、久々だからイマイチですいません」かなり嫌味な私である。

 

 高座が終わった後。太田スセリさんが言った。

 「やっぱり、切奴さんのパターンじゃん!」

 「じゃん!」って…。でも、少し嬉しかった。そう見えただけでも嬉しかった。

 ウケるネタは、これ一本しかないことは隠して「上手い奴」のフリをして他の落語を観ることにした。

 

 そこに、専修のOBで梅朝(亭号不明)さんと言う方が登場して「馬のす」を始めた。私はこの噺を初めて聞いた。八代目・桂文楽師匠で有名なネタだが、この当時、寄席で「馬のす」を聞くことはほとんどなかった。

 名人・文楽のイメージが強すぎて手を出せなかったのかもしれない。

 

 この梅朝さんがやたらと上手い。目の使い方が他の者とは別次元。プロでもやらないような細かい描写と目の動き。何だ!この人! そんなに笑いが起る噺ではないが、客の心に刺さる上手さだ。プロで言うと先代・馬生師匠のような存在感と談志師匠の様な怖さがあった。

 この方は別の日に「たいこ幇間」を聞いたが、こちらも、大変なものだった。

 私のガチャガチャと騒がしく笑わせる落語とは地肩が違う。ピッチャーなら百六十キロで伸びのある重い剛球。私のは一見早いが、バットに当たるとすぐホームランになる軽い球だ。

 

 その後。私はこの会には三度呼ばれている。この時の評判は悪くなかったのだと思う。翌年、覚えたての「反対車」さらに「火焔太鼓」をやったが、どれも笑いが多かった。ヘタでも笑いが起れば一矢報いた気持ちだった。

 この数か月後。私は全国大会の本選まで行けた。多分、気づかぬうちに「まあまあ」上手くなっていたのだろう(調子に乗って自慢している自分よ!みぐるしいぞ!)。

 

 同様に衝撃をウケたOBに、國學院落研の五代目・三優亭右勝(九年位先輩)さんがいる。文化祭で「鰍沢」を観て驚いた。

 「鰍沢」は昭和の名人・三遊亭円生師匠や、先代・林家正蔵師匠で有名だった大ネタだ。素人でこんな噺に手を出す人を初めて観た。笑いがまったくない噺である。

 口調は志ん朝師匠風で、仕草が抜群に上手い。囲炉裏に薪を折ってくべる仕草が絶品なのだ。そこに本当に薪があるかのように、薪を折る時の質感が伝わってくる。これは、ジブリ映画で座った椅子が少し後ろにしなる拘りに近い。ほとんどの人は気づかないが、演者(製作者)自身の気持ちが許さないのだ。

 

 うちの先輩(楽陳さん)の話では、この右勝さんは学生時代、夏休み中に落語のネタが五~六本増え、どれも上手かったそうだ。

 学生時代9本しか覚えなかった私とは大変な違いである。しかも、五本はまったくウケなかった。

 

 早稲田のOB・月見亭うどんという方の学生時代の音源を聴いたことがある。「トンカツ」という昔の新作だったが、口調が良くやたらと上手い。「昔の名人の若い頃の音源だよ!」と言われて渡されたら「これは、可楽ですか?」と聞いてしまいそうなプロの口調だった。

 

 この方が枕で「パチンコ店の看板のネオンのパの字が消えていた」というネタをふっていたのを聞いて気づいた。

 同じ枕を昔観たことがあったからだ。憶測だが、この方は「第二回全日本学生落語名人位決定戦」で切奴さんと一緒に決勝に出ていた方だと思う。

 パチンコ店の枕が同じだったのだ。この月見亭うどんという名は、元フジテレビアナウンサーの牧原俊幸さんが早稲田の寄席演芸研究会時代に継いだ名前である。

 多分、牧原さんの先代なのではないだろうか?

 

 最後に…。大阪の圧倒的なスーパースターは、甲南大学落研の甲福亭満我(こうふくてい まんが)さんである。

 私はテレビで観ただけで面識は無いが、技術、上手さ、華、が圧倒的。アマチュアのレベルではなかった。

 多分、全国大会決勝に三年連続で出ていたのではないだろうか?

 しかも、いつも、二位か三位。上手すぎて優勝できなかったタイプだ。プロにならなかったのは、何か事情があったのだろう。

 

 私の担当するラジオ「サンデーフリッカーズ」(JFN)のリスナーに満我さんの後輩(桂べちょべちょ)さんが居る。メールで教えて下さったのだが、満我さんは学生時代すでに桂枝雀師匠に稽古をしてもらっていたそうだ。

 これは、東京では考えられない羨ましい話だ。今、思い出すと、私の一つ後輩の明治学院大・落研(らりこう?という名)にも枝雀師匠に稽古してもらった男が居た。

 上方の落語界には、そんな素人に優しい土壌があるのだろうか?

 羨ましい限りである。

 

 しかし、もし私が学生時代に憧れの噺家に稽古してもらえる話があったら…。と考えると怖くなる。多分、震えて落語など出来ないだろう。

 

 学生時代、談志師匠に呼び出されて「学生が古典なんかやるな!自分で作れ!そうすれば、新しい形が生まれるかもしれない」と言われた時。私は直立不動で「はい!」としか言えなかった。

 

 凄い方達は、私とは度胸が違う様である。

 

 

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國學院大落研と東海大落研

 四十年程前の学生時代。私の所属する東海大学落研國學院大學落研はとても仲が良かった。青山学院の落研も仲が良かったのだが…。

 東海、国学に比べるとダントツにオシャレで女子部員が可愛かった。

 どこか、卑屈になって東海・国学が親密になったような気がする。

 

 我々、東海からしたら国学も大都会・渋谷の大学だ。神奈川県の田舎・大根駅の学生にはまばゆいばかりだった。

 

 國學院の文化祭は、東海大とは時期がずれていたので、毎年、お邪魔して楽屋でバカっ話をしていた。

 

 一年の時。初めて国学院の文化祭の楽屋を訪ねると、OBや先輩達が優しいのに驚いた。応援団の様な東海落研と違い、一年生の私に色々と気を使ってくれるのだ。

 楽屋でOBが持参した寿司やドリンクもふるまわれていた。

 

 私に國學院四年生の三優亭右勝(元・若木家元治)さんが話しかけてきた。

 「黒舟!よくきてくれたね~!まあ、飲みなよ!寿司でもつまんで」とドリンクをついでくれた。頂いていると…。

 「せっかくだから一席、やってきなよ!誰か!着物貸してやって!」

 

 私は一つしかないネタ「長短」をやることになった。お客さんは重く、誰も笑わない。とは言っても、私は半年ほど落語をやっていて、ウケたのは一度だけの部員なので、いつも通りのツマラナイ高座だった。

 

 高座を降りた私に右勝さんが言った。

 「黒舟は喋りがしっかりしてるね!東海さんは誰を聞いてもチャンとしてるよ」

 大変なヨイショである。私はクスリともウケていない。無理して褒めるなら「ネタをつっかえないで凄いね!」ぐらいしか褒め言葉が無い状態だ。

 そこをうまく、大学ごと褒めることでまとめるところが、この先輩の凄い所だ。

 

 その時。楽屋を訪れた人が居た。

 「落語会の〇〇です。今日はゲスト出演に呼んで頂いて…」

 

 國學院大には当時二つの落研が存在した。私と仲の良かったのは落語研究会。その他に落語会という名の別の落研が存在していた。こちらの落語会はOBに「さだまさし」さんが居ることで有名だ。

 

 ゲストの落会の方に、国学の会長・三年の若木家志楽(後に入船亭扇辰師匠がこの名を継いだ)さんが聞いた。

 「今日、ネタは何をやりますか?」

 「「うなたい」を一つ!」

 私は驚いた! 「うなたい!」って何だ? どうやら「鰻の幇間」のことらしい。「饅頭怖い」を「まんこわ」と言うのと同じ理論で「うなたい」と縮めていたのだ。

 この人はただものではない! この理論だと「居残り佐平治」は「いのさへ」「地獄八景亡者の戯れ」は「じごむれ」かも知れない。

 しかも、ゲストは軽い噺をやるものだ。いきなり、大ネタというのも凄い!

 

 この方が高座に上がると、落研の先輩が小さな声で言った。

 「うちと色違うでしょ! 「うなたい」だもん!」

 

 同じ大学とは言え、ライバル同士。お客を取り合う敵としての炎が燃えていた。

 

 この方の「うなたい」いや「鰻の幇間」を袖から見せて頂いた。とても、本格派で上手い人だと思った。

 

 実は、この方は、現在、プロとして活躍している、三遊亭遊吉師匠である。上手いのは当たり前だ。

 

 その日は、國學院の皆さんに飲みに連れて行って頂いた。いつしか、東海の先輩は帰って東海は私だけになっていた。

 右勝「誰か、黒舟を泊めてやってよ!」

 「じゃあ、うちに来いよ!」

 

 三年生のプレスリー(漢字は不明)さんのお宅に泊まることになった。先輩の部屋は吉祥寺だったか明大前だったか、憶えていないが、昔ながらのボロアパートでドラマ「俺たちの旅」を連想させた。

 部屋には古新聞が天井まで積み重ねられ山の様になっていた。まるで、倉庫の中の様だ。

 この新聞は、勉強の為に記事を読み返す資料だという。そんなもの図書館に行けばいいのに、不思議な人だ。

 

 ここで、私は記憶が無くなった。飲み過ぎと、疲れ。そして、他大の先輩達に気を使ったのだろう。

 応援団の様な理不尽な東海大の先輩に体が慣れてしまい。優しすぎる先輩達に気を使ってしまったのだ。

 

 このブログ。あまり面白くならなかった。やっぱり、悲惨な目に合わないと笑いは生まれないものだ。

 

 

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