私が東海大学落語研究部に入部したのは、昭和55年。三年生には全日本学生落語名人位決定戦の優勝者・頭下位切奴さんがいた。この18期と呼ばれる代は、誰もが実力があり、テレビ番組の常連。漫才でもプロを相手に勝ち抜く様なスーパー大学生だった。
後輩たちには誇らしかったが…。私たちは常にこの先輩たちと比べられる苦しい立場に立たされていた。
それは、長嶋茂雄が引退した巨人軍の様な酷い低迷を生むことになった。当時の二年生、一年生にはウケる奴が誰もいないのだ。
私たちはOBにダメの烙印を押されていた。
そんな東海大低迷期とは対照的に、黄金期を迎えていたのが青山学院落語研究会だった。特に一年先輩に怪物と呼ばれるレジェンドが多数終結していた。
中でも忘れられないのが、別次元の爆笑をさらった免亭回丈(めんてい かいじょう)という先輩だ。この人は仕草も上手く技術がしっかりしているのに、プロの誰の真似でもないオリジナルのキャラクターを持っていた。
もあ~っとした雰囲気で、ためのある独特の間で大爆笑となっていた。東海大の先輩・切奴さんはスピードとテンポ、剃刀の様な間の良さ、切れ味で爆笑を取る天才だったが、この回丈さんは、ゆっくり、もったりと、やるのに同じレベルの爆笑が起こって笑いがしばらく止まらないのだ。
私は「こんなやり方があるんだ」と感心したものだ。
さらにもう一人の怪物・芸術院せん生さんも一年先輩だった。この方は、プロに近い落語に学生らしいフラとギャグを入れ込んで、よくウケていた。
モノマネのセンスも良く、日本テレビの小林完吾アナのモノマネでテレビの特番にプロと一緒に出演したこともある。
漫才では大阪でフリーターアナとはて活躍中の森たけしさんと組んだ「青山一浪・二浪」の名でテレビ番組に出ていた。
せん生さんは枕も面白く、他の学生ではやらないオシャレな小噺や、自身の失敗話などをうまく話していた。
私が三年生の時。「渋谷三大学落語会」に出演することになった。そこには、青学から、この二人も出演することになった。
絶対勝てない相手が二人も出る…。私としては絶望的だ。落語会の後の、OBの大小言が決定的である。
私は打倒青学は無理でも、なんとか引き分けに持ち込もうと考えていた。下手でもウケれば学生としては勝ちである。それにはパンツを脱いでもウケる必要がある。
そこで、話術での勝負を捨てて派手にジェットコースターの様にやる戦略。しかも、短くやって笑いだけとって、下手がバレないうちに高座を降りることにした。
当日。これが当たって自分でも驚く大爆笑となった。会場が波打って笑いが後ろから押し寄せてくるのだ。私は無我夢中でスポーツの様に駆け抜けた。
多分、一人の持ち時間は二十分程あったと思うが、私は十一分しかやっていない。
その後。青学の回丈さんは、「初天神」で、やはり爆笑をとっていたが…。私も笑いの量は近いものがあったと思う。技術は下手でしたが、ネタはオリジナルを入れていた。
せん生さんも当然、枕からウケていた。しかし、噺が人情噺だったので、笑いが少なく、私としてはガッツポーズである。この時は戦力が劣るヤクルトが野村野球で巨人に勝った時のような充実感だった。
実際、この日九人出た出演者の中で、笑いの量では私は二番目だったと思う。
この年の秋。私はこのネタで第五回・全日本学生落語名人位決定戦の決勝まで進んでいる。十一分という短さもテレビに最適だっ様だ。
ちなみに、この大会では当時日大一年生のK師匠、S師匠が一次予選落ちしている。
へたくその私も今思えば大したものである。
この大会に、回丈さん、せん生さんは参加しなかったそうだ。何故か当時の青学落研は、素人参加番組には出ても、落語の大会には出ないという拘りがあった様だ。
かつて、上手い先輩が負けたので審査基準を疑っていたとの噂もある。実際、テレビ番組の場合。プロっぽい素人は嫌われる傾向にある。
「上手すぎると優勝できない」とも言われていた。私ぐらいの学生らしく声を張るヘタクソが丁度良かったのだと思う。