あの、ラジオの聖域「オールナイトニッポン」が55周年だという。確か「ウルトラセブン」が始まった頃。「笑点」が始まって1年の頃の開始である。
私は開始時には子供過ぎて、ラジオは聞いていなかった。残念ながら「亀&アンコー」には間に合わなかった。
私が初めてオールナイトニッポンを意識したのは「あのねのね」である。小学校の5年か6年か…。クラスのリーダー格Aが「あのねのね」面白いんだよ!「赤とんぼの唄」最高だよ!♪赤とんぼ―!羽をとったらアブラムシ~! と歌っていた。私はその「あのねのね」のラジオを聴こうと、眠い目をこすりながら、10時ぐらいから当時、静岡県唯一の民放だったSBSラジオを聴いていた。
深夜1時からの放送だから10時から聞く必要はないのだが、そこは、カウントダウンみたいなものである。
地元のアナウンサーの放送やTBSの放送(TBS系だが、オールナイトの一部だけは放送。二部はネットしていなかった)を聞いていた。内容はまったく覚えていない。
何度も寝落ちしそうになり顔を叩いたり、つねったりして、ついに、念願の深夜1時…。あの、タイトルコーを聞いた!「あのねのねの、オールナイトニッポン!」私は、その嬉しさにガッツポーズしたが…。次の瞬間…寝落ちした。
朝、起きた私は念願の「あのねのね」をオープニングしか聞けなかったことに悔やんだ!オールナイト初体験は苦い思い出だ。
その後は、中学で「鶴光のオールナイト」が大ブレーク!関連書籍は男子なら誰もが愛読するバイブルとなった。
そこからは、吉田拓郎、南こうせつ、中島みゆき、ビートたけし、タモリ、と眩いばかりのスター達の声に魅了されたものだ。
私が放送作家の見習いになった昭和59年。その時、まだ「鶴光のオールナイトニッポン」は現役。「たけしのオールナイトニッポン」は全盛期。
スタジオの遠くから見学するだけでも心が震えたものだ(別の仕事で行っていた時。そーっと見に行った)。
私も「オールナイトニッポン」の末席ではあるが、作家として携わったことがある。20代の頃、別の番組で知り合いだったHディレクターに声をかけられ「久本雅美のオールナイトニッポン」に参加できた。
この時は、劇団の作家・Sが居て、私はサブ。ギャラは極少ないものとなったが、その嬉しさはメガトン級!夢のような時間が始まった!
そして、作家・Sの原稿の書き回しの上手さ、構成力、発想の豊かさに、絶句した!全てが私より上である。上どころか雲の上の存在だった。
後で、この作家のSさんは、私の大学落研の先輩と高校の同級生と知る。人生の伏線回収は、ここでもあった。
先日。鶴光師匠の現在のラジオを聴いていたら、昔のクイズで「久本雅美のオールナイトニッポンでリスナープレゼントした、とんでもない物が何か?」出題されていた。
このプレゼントは私も思い出深く、すぐに思い出した。
正解は「チェッカーズのフミヤさんが使った割り箸」である。こんなこと、今、やったら怒られると思うが…。我々の放送の前にフミヤさんが出演していたのをいいことに、フミヤさんが帰った直後に、久本さんが割り箸をゲットしたのだ。私は食べるところも遠くから見ていたので、正真正銘本物の使用済み割り箸である。
こんなもの、嘘をついて別の割り箸にしても分からないのだが、そこは、ヤラセ無し!が拘りだった。「川口浩探検隊」とは逆の演出である。
ちなみに、プチ鹿島さんの著書「ヤラセと情熱 水曜スペシャル「川口浩探検隊」の真実」に記されている蛇の色をスプレーで塗って変えたスタッフは、作家・Sの高校の同級生。私の大学の先輩だった様だ。
ここも、人生の伏線回収である。
話がドンドン、それてしまったが…。
私はその後。「プリーズ」「ヒルビリーバップス」「セピアンローゼス」(後半のみ)とオールナイトニッポンに携わることが出来た。私もOBの端くれということになる。
今、有楽町の丸井で「オールナイトニッポン55周年」の展示をしているという…。今から行ってみようか…。家に保存している「久本雅美のオールナイト」グッズのメンコをポケットに入れて行こう。意味は無いが、多分、マイナー過ぎて展示には無い筈だ!メジャーなノベルティと一緒に写真でも撮ってみようか?
きっと鶴光師匠のグッズ「銭の元」もあるに違いない。私は未だに本物を見たことが無い。
よし!決まった!「銭の元」と「久本メンコ」のツーショットだ!撮影が可能ならの話だが…。あっ!「鶴光のオールナイトニッポン」の後期に作家をやったのは、作家Sさんだった筈だ!また、伏線回収成功である。