放送業界のお話と落研と私的な思い出(瞳尻・黒舟)

放送関係。業界のエピソードと近所の出来事

東海大卒・なりゆきで放送作家へ。

以前、個人的に書いた「嗚呼!青春の大根梁山泊放送作家・業界編~」の冒頭部分を紹介することにしました。

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 昭和60年、冬。
 大学卒業間近の私は放送作家としてスタートすることになった。東海大学落語研究部時代に、先輩の勧めで放送作家の弟子になった。


 私には「どんな番組をやりたい」とか「こうなりたい」と言った野望は全く無かった。ただ、東海・落研の時の様に笑って暮らしたかったのだ。

 しかし、世の中はそんなに甘くはない。放送作家を目指す他の若者は、高い志と野心をもって真剣にチャレンジしているのだ。

 

 私は昔から、何かに流されて生きて行くタイプである。売れっ子作家のМ氏に弟子入りしたが、この方に憧れた訳ではなく「弟子を募集」していたから(これは異例のケース)。

 

 そこに、クラブの先輩から勧められたからなのだ。こんな姿勢の奴がフリーの仕事で成功する訳がない。今ならそうと分かるが、この時は、今日を生きることしか頭に無く、将来の夢も無く、かといって不安も無かった。

 

 普通の人間なら、給料の無い放送作家になるなんて、不安で仕方がない筈である。その不安を感じる能力さえ、私には無かったのである。それが幸いして続けられたとも言えるが…。

 

 初めて、新設したばかりの六本木の作家事務所「М商店」に案内された私に、師匠のМが関西弁で言った。
 「まだ、この事務所、絨毯敷いてないんだよ!お前、金あるか? あるなら六万円貸してくれ」
 「銀行に行けばあります」

 当時、テレビ・ラジオを十本近く抱えていたМ氏とは思えない頼みである。
 
 翌日、私は銀行からなけなしの現金六万円を下ろして師匠に手渡した。
 「お前、学生のクセに金あるのか?お坊っちゃんか?」
 「田舎の普通の貧乏人です」

 

 М師匠は現金を受け取るとニャっと笑って私に言った。
 「うちは、他みたいな師匠と弟子とは思っていないからな。新人の時は仕事なんか無いんだから、特別、給料制にしてやる。月8万やるから電話番しろ。それから、俺は他の奴と違って車の運転手とかさせないから、頑張れ!」
 「ありがとうございます」

 

 おそらく、放送作家の成り立てで番組も担当していないのに給料が出たのは私ぐらいだろう。しかし、この給料制が後になって最低の制度だと知るのだが、この時は知る由もなかった。

 

 師匠が事務所で言った。
 「お前、今、トイレ入った時、鍵かけたろう?」
 「かけました」
 「事務所に俺とお前しかいないのに、何で鍵をかけるんだ?」
 「えっ!」
 「俺は、お前のトイレなんか覗かない! 気持ち悪い奴だな!」

 

 質問の意味さえ不明だった。まさか師匠がトイレを覗くとは思わないが、鍵は一連の動作でかけるのが私の常識である。

 もし間違えて開けたらお互いに気まずいから閉めるのだ。

 師匠は「俺は、同性愛の趣味はない」とでも言うつもりなのか? 

 それとも、放送作家で売れる様な人は、普通とは感覚が違う人なのか? もしくは冗談で言っているのか?


 怒った口調だったので多分冗談ではない。やはり、売れる人はどこか狂気があるのだろう。

 

 「いいか!これからはトイレに鍵をかけるな!」
 「分かりました!」(全然納得できない)

 「それから、お前、車の運転できるか?」
 「免許はとったけど乗ったことありません」
 「そうか、じゃあ教えてやるから乗ってみろ!今から日テレ行くぞ!」

 

 「俺は運転手はさせない」と言った師匠だが、これは運転手ではないのだろうか?
 疑問を抱いたまま、とにかく車に乗った。

 

 「小林! これ、グロリアの新車だ! 正確には新古車だがな。いきなり、これ乗れるなんて運がいいぞ!この野郎!」
 何が「この野郎!」なのか分からない。


 「ここは、左に寄っておくと、後で曲がりやすいからな。こら、信号で止まったらライトは落とせ!」
 「そうなんですか?」
 「その方が車に良いんだよ!」

 

 教習所では聞いたことが無いノウハウを色々と教えてくれた。

 M師匠は車の整備士の免許をもっていて、車の知識がある。私が初めて面接した時は、田舎では、漫画「サーキットの狼」でしか見たことのなかった、BМWに乗っていた。それを乗り換えたばかりだったのだ。

 

 М師匠は、立教と青学を中退。青学の時は「ビートルズ訳詞研究会」を創設したという。いつも、自慢げに、サザンの桑田は「ビートルズ訳詞研究会」では俺の後輩だ!」と言っていた。

 どうやら、桑田さんは音楽サークルと同時にこのクラブにも入っていたらしい。


 さらに師匠は、二校目の青学を中退した後、自動車の整備士免許を取ったらしい。
 また、学生時代に童話を書いて賞をもらったらしい。

 

 この先生は芸能界では「浪速のヤクザ作家」と呼ばれていた。なんでも、祖父が大阪で組長をしていたらしい。子供の頃、よく若手の組員にキャッチボールをしてもらったそうである。
 本人は完全なカタギなのだが、回りは面白がって「ヤクザ作家」と呼んでいたのだ。本人も、それをネタに楽しんでいるようにも見えた。
 
 М師匠は、私の運転を見て、少しイライラしていた。
 「お前は、運転が下手だな~!俺が毎日教えて上手くしてやるからな」
 「はい!」
 「何がハイだ!もっと喜べ!」
 「はい!そこ曲がって、ここ、日テレの駐車場だ!入れ!車でしばらく待ってろ!俺は、会議行ってくる」

 

 私は思った。これ、どう考えても運転手である。
 やはり、作家になる様な人は、浮世離れしているものなのか? 

 

 待つこと二時間。М師匠が帰って来た。
 「次、テレ東行くぞ!」
 やっぱりお抱え運転手である。テレ東の後はTBSへ行き、喫茶店で何かの打ち合わせをし、夕食を済ませて、師匠は帰って来た。

 

 「じゃあ、今日は帰るから代田橋まで行くぞ!」
 車を運転して帰る途中。師匠はまた言った。


 「俺は車の運転手なんかさせないからな!お前はついてるぞ!この車、お前乗って帰っていいから、明日、事務所に乗って来い」


 メチャクチャである。完全に運転手だし、車を渡されたら駐車場が無い。私が住んでいた世田谷はレッカー移動も多く、そんなの迷惑である。

 

 「車は置いて帰っていいですか?」
 「お前、車嫌いか? 自由に乗って遊びに行っていいのに、変わってるな~!」


 いやいや!私からすれば師匠の方が変わっている。流石は売れっ子放送作家だ。まだ、大学生の私には理不尽というより、宇宙人との遭遇に思えた。

 

 私は車を断って小田急線で帰った。夜の十二時近く。お腹がグ~~と鳴った。そうか、昼から何も食べていなかった。

 あまりに疑問が多くて、お腹が空くのも気づかなかったのである。

 

 本当に、こんなところでやっていけるのか? 小田急線の車内では、同世代の新入社員風の男が酔ってOLと楽しそうにイチャついている。

 車窓から見える街の光が私の心を不安にさせた。

 

 とにかく、明日の朝も事務所に行かなくては…。

 

 

上の文章は、このエッセイの続き。業界編の冒頭(未完成)です。まずは、こちらを読んでから…。

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