放送業界のお話と落研と私的な思い出(瞳尻・黒舟)

「嗚呼!青春の大根梁山泊~東海大学・僕と落研の物語」スピンオフ・エッセイ。放送関係。業界のエピソードと近所の出来事

十代目・金原亭馬生師匠!

 昭和五十六年・私が大学二年生の頃。東海大学落研OBの初代・甘奈豆さん(放送作家佐藤かんじ氏)から、クラブの委員長に電話があった。

 

 その内容は「次の「紀伊国屋寄席」は、金原亭馬生・最後の「幾代餅」だから、観に行くように」と言う指令だった。「紀伊国屋寄席」とは新宿紀伊国屋ホールで今も開かれている老舗のホール落語会である。

 そして「幾代餅」は吉原を舞台にした人情噺。「紺屋高尾」とほぼ同じ内容だが、東海落研では「幾代餅」の方が人気だった。

 

 当時、我々部員は何故最後の「幾代餅」なのかまったく分からなかったが、全員で観にゆくことになった。

 

 観ると、その「幾代餅」は素晴らしい出来栄え。会場は爆笑に包まれているのに、ジーンと切なくて、心に響く名演だった。

 

 部員一同。感動の余韻を語りながら、新宿のションベン横丁(思い出横丁)で飲んだ。しかし、何故?最後の「幾代餅」かは謎のままだった。

 

 それから、半年後。昭和五十七年の八月三十日。私は高崎・榛名湖畔で行われていた夏合宿の帰りに、そのまま渋谷に出て「東横落語会」の当日券に並んだ。

 私のお目当ては、主任(とり)の柳家小三治師匠の「宿屋の仇討」だった。その時、金原亭馬生師匠も「船徳」で出演している。

 

 この日の馬生師匠は、声も小さく、元気がなく、噺の最中に何度か痰をぬぐっての高座となった。体調は相当悪そうである。

 しかも、客席からまったく笑いが起きない。観ている私も暗い気持ちになってしまい、主任の小三治師匠の高座がまったく頭に入らない程のショックだった。

 文化祭に向けて「宿屋の仇討」を憶えようとしていた私だが、やめてしまった。馬生師匠の体調の悪さがショックで新しいネタを憶える気がうせてしまったのだ。

 

 後日、馬生師匠逝去の報道がされた。最後の高座は、東横落語会の「船徳」と書いてある。あの日の高座だ。

 

 後に、本で読んだのだが…。あの日の「東横落語会」の会場には日芸落研時代の立川志らく師匠が居たという。

 師匠の本によると「馬生師匠の「船徳」は水墨画の様だった」と書かれていた。そして、噺家になる決意をしたと言う。

 

 同じ空間に居合わせたことを私は誇りに思う。合宿帰りで疲れていたが帰らなくて良かった。なにかの直感がはたらいたのだと思う。

 

 そして、半年前の最後の「幾代餅」の意味が分かった。初代・甘奈豆さんは、師匠の体調のことを知っていたのだろう?

 

 実は、この話を先日、地下鉄の中で当人の甘奈豆さんに聞いてみた。

 「何で、最後の「幾代餅」って分かったんですか?」しかし、返事は…

 「俺達は「紺屋高尾」より古今亭の「幾代餅」が好きだからな」と、はぐらかされてしまった。真相は分からないままだ。

 

 そして「あの時の話し、ブログに書けよ!」と言った。

 そこで、素直にこの思い出日記を綴っている。

 

 私は本当に律儀で真面目な男である。

 

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