世田谷区経堂に住んでいる時。ある日、駅前で酔っぱらった春風亭柳好師匠と会った。
「小林さん、変な店行きませんか。ヒャ~ヒャッヒャッ、ヒャ~!」
柳好師匠は、独特の笑い方で飲み歩く街のアイドルだ。
この界隈の「変な店」「マニアックな店」「人気の無い店」「客が被害に合う店」のエキスパートとして知られている。
行くといつも何かが起こるので、なるべく行くことにしている。
ついて行くと、サソリの看板がある怪しいバーがあった。常連でないとかなり入りにくい店だ。色気のある三十代ぐらいのママが一人で経営。小さな店だが、チョット変わったお客さんが集まっている。
この店のカウンターに三十代後半ぐらいの酒乱気味の女性が一人で飲んでいた。店中に聞こえる声で家庭のグチを言っている。
聞けば両親と同居していて、夜中に家を抜け出して一人で飲んでいるという。バレると両親に怒られるそうだ。年齢から言って怒られるとは変な話だが、面白そうなのでグチを聞いていた。
すると、一通りグチを言った後、急に自慢を始めた。
「実は、うちの兄貴って頭が良くて凄い人なのよ! 青学の落研で会長もやったのよ! 伝統の凄い名前をもらってさー! 落語が凄く上手いんだよ!」
流石は柳好師匠の勧める店。早くも何か起こりそうだ。青学・落研なら、私の知っている人かも知れない。しかも、この女性は本当に兄貴のことが好きで尊敬している様なのだ。
「兄貴はさー! 「誉れ家笑さん」って言う名前なんだよ」
えっ! 誉れ家笑さんと言えば、大阪読売テレビのアナウンサーになった、森たけしさんの名前である。私は思わず「そのお兄さんって、アナウンサー?」と聞いた。
「違う~! その名前をもらったのよ!」
「えっ! それってもしかして?」
私は驚いた。森さんの次の誉れ家笑さんは、私の青学の同期が継いだのだ。
「それって、一年の時は菩薩家地蔵じゃないか?」
「えっ! 何で知ってるの?」
「俺、大学は違うけど、同期だよ!」
「嘘! ここで飲んでることは、兄貴には内緒ね!」
私は彼女が言っていた「うちの兄貴って頭が良くて凄い人なのよ!」が引っかかってしまった。勿論、頭は良いのだろうが…。彼は普通の部員である。
最初はやさぐれた酷い女が飲んでいると思ったが、自分の兄貴をこんなに尊敬しているなんて好感が持てる。私には無い感覚である。
地蔵君は、子供の頃、頭の良い・優しい・お兄ちゃんだったのだろう。
数日後。私はサソリの看板の店に一人で行ってみた。
すると、カウンターでダンディな男が空手着で飲んでいる。年齢は五十代だろうか? どう見ても変である。この近くに空手道場は無いし、あったとしても飲む時は着替えないと不自然だ。
私はつい。「空手やってるんですか?」と聞いてしまった。
「ああ、先週から始めましてね!」
「…先週から!」
確かに見ると、白帯である。
「あなた、空手やったことありますか?」
「ありません」
「よし! 打ってこい!」
ダンディーな男は、立ち上がって構えた。
いきなり、初めて会った隣の客に「打ってこい」と言われても、困る。しかも、先週から空手を始めた人では、私と腕は大して変わらない筈だ。
面白そうなので、当たらない様に形だけ打ち込んでみた。男は楽しそうに私の正拳突きをさばきながら「もっと、強く! 早く!」などと言っている。
最後に男は満足げに「まあまあ、だな!」と言った。あんたも初心者だろうが!
ダンディー男は、また、カウンターに座るとバーボンをストレートで飲み干した。
「道場で小学生とミット打ちやるとさー!」
「ええ! 小学生?」
「あいつら、下手くそだからミット外して脇腹に当たって痛いんだよ! やっぱり、子供はダメだな!」
訳を聞くと、仕事の都合で大人向けの練習時間は行けないので、頼み込んで特別に子供向け教室に入ったそうだ。
この店の客、おそるべし! かなり変である。
さらに、数日後。サソリの店に行くと、いきなり、ギターを持ったオジサンが入って来た。
「一曲どうですか? 百円です」
「えっ! なんですか?」
「私、流しで演奏してるんです。私の伴奏で歌いません?」
私はこの街で、流しなど見たことが無い。しかも、自分が歌うのではなく演奏だけしてお客が自分で唄うのだ。
面白そうなので頼むことにした。
「吉田拓郎の「流星」をお願いします」
「う~ん! それはチョットできないね~!」
「じゃあ「外は白い雪の夜」」
「それは、チョット…」
「何が出来るんですか?」
「基本、なんでもできますよ」
会話が成り立っていない。
仕方がないので「落葉」を頼むと「それなら、何とか?」と弾き始めたが、伴奏がオリジナルと全然違う。適当に自分の感覚で演奏しているのだ。しかも、演歌風の同じフレーズがループしている。
こうなるとどこで入っていいか分からない。
「あの、どこで唄えばいいんですか?」
「どこでも、歌に入って下さい。私が合わせますから」
「そうなの?」
とりあえず、歌ってみた。♪しぼったばかりの夕日の赤が~
すると、私の唄の音に合わせて弾くのだが、微妙に音がずれている。とても歌いにくいのだ。むしろアカペラの方が歌いやすい程だ。
私があきれて「もうチョット、音を歌に寄せられませんか?」と言うと、この流しが切れ気味に言った。
「あなた、弾けるんでしょう? 自分で弾きなよ!」
何と、ギターを私に持たせたのだ。そんな馬鹿な! もはや流しではない。
仕方なく、自分で弾いて歌うこととなった。そして、流しは言った。
「百円です」
「おいおい! お金とるのかよ!」
仕方がないので、ギターレンタル百円と思って、三曲程歌った。酷い話だが、体験としては面白いので、良しとしよう。
後で聞くと、この流しは、他の店では追い出されている変人らしい。この店は、出禁の奴らが集っている様だ。
柳好師匠の勧めるお店は、いつも、私にとって「夢と魔法の大国」だ。
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