放送業界のお話と落研と私的な思い出(瞳尻・黒舟)

「嗚呼!青春の大根梁山泊~東海大学・僕と落研の物語」スピンオフ・エッセイ。放送関係。業界のエピソードと近所の出来事

「春風亭昇太のジョーダンDEナイト」と言う番組。そして一之輔!

 先輩の春風亭昇太さんが言った「チョット、企画書書いてくれない」。

 事務所のマネージャーに詳しいことを聞くと、静岡放送のミニ番組で昇太さんが地元静岡のスポットを訪れる番組だと言う。

 

 この手の企画書は、何十通と書いたことがあるが通った試しがない。かといって、先輩の頼みを断る訳には行かないので、かなり適当~に書いてFAXした(当時、メールは無かった)。適当ついでに企画者として自分の名前すら書かず、企画「昇太とその仲間たち」としておいた。もし、電通に出したら怒られそうな酷い企画書である。

 

 数か月後、昇太さんが言った。「あの企画書通ったから、始まるぞ! お前も出演しろ!」「えええ~! 出演!?」

 

 そんな馬鹿な! いつも真剣に時間をかけて調査して書いた企画書が通らないのに、あの適当~~が通るなんて。世の中の審査基準というものがまったく分からない。

 おそらく、丁度空いた枠があってスポンサーが見つかってしまったのだろう。昇太さんは、その時、真打に成ったばかり。

 TBSの人気番組「ヨタロー」でブレイクして、追っかけがいる程の人気者となっていた。地元・静岡でも注目の若手だったのだ。

 

 私は構成兼出演者となってしまったのだが、当時はレギュラー番組を十本以上やっていた頃。何と! 私のスケジュールが無いのだ。訳を話すと、私がロケを休む時は代打で、役者の清水宏さんが出演していた。そう、今もスタンダップコメディーで活躍する、あの、汗かきの清水さんである。当時、清水さんは山の手事情社という人気劇団の看板俳優。並行して一人芸をやっていたと思う。

 そんなに凄い人が来るなら、素人の私などいらないのだが、温情でそのまま出演することになった。

 

 この番組「昇太のジョーダンDEナイト」は、SBS静岡放送の深夜の十分程の番組。静岡の情報と言いながら、ほとんどのロケは浜松周辺で行っていた。

 「浜名湖ボート」「弁天島の潮干狩り」「弁天島の民宿・海賀荘」(ここは、東海大落研の私の一つ後輩・雷念君の経営)「森町の自然薯の大食い大会」「浜松の海のミスサンビーチコンテスト」「浜松のディスコ」「浜松・女子高のソフトボール部」「日本で唯一の町営酒場」「浜松凧祭り」など、テーマはメチャクチャで何が飛び出すか分からない。私としては、ロケがとても楽しみだった。

 

 最初の放送を見た時、驚いたのはエンドのスタッフロールで、構成・「昇太とその仲間たち」と書かれていたことだ。なんて素直なスタッフだ! 私が冗談でふざけて書いたものなのに「昇太とその仲間たち」は昇太さんの拘りだと勘違いしていたのだ。

 私も静岡の磐田市出身。地元民としては、親戚の手前、正直自分の名前を出したかった。しかし、いまさら直してもらうのは気がとがめるので、そのままにした。

 

 とても楽しいエセ・タレンント体験だったが、私は、この番組の最終回の記憶がない。おそらく、ロケに行けなくて清水宏さんが担当したのだろう、

 しかし、出演者の一人がコロコロ変わる番組など聞いたことがない。スタッフは局の上層部から相当叩かれたことだろう。

 

 ちなみに、このロケを休んだ時の私は、東京FМの「耳の穴」と言う番組の生放送に立ち会っていた。実は、このラジオ番組のディレクターが、今、春風亭一之輔師匠がFМの朝生放送している「サンデーフリッカーズ」(JFN)の初代・プロデューサーKさんである。「パーソナリティは三十才前後の落語家さんでやる」と宣言し、あの一之輔という鉱脈を掘り当てた。

 

 今、思うと、この時のラジオを休まず優先したことは正解だと思う。後から入ったテレビのロケで休む様な作家なら、その後、声がかからなくなるからだ。

 まあ、その証拠に静岡のスタッフからは、その後、声がかかることはなかった。「二頭を追うもの一頭も得ず」とは、このことである。

 

 またもや、私の中で一之輔師匠と繋がった。無理やり一之輔さんと繋げると、アクセスがやたらと増えることが分かったので、卑怯極まりない手口で書いております。

 

 

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