放送業界のお話と落研と私的な思い出(瞳尻・黒舟)

「嗚呼!青春の大根梁山泊~東海大学・僕と落研の物語」スピンオフ・エッセイ。放送関係。業界のエピソードと近所の出来事

あるミュージシャンのラジオ番組

 三十年ほど前。私は埼玉で開局したばかりのFМ放送局795の朝の番組を構成したことがある。

 

 この時のパーソナリティは新人の女性ミュージシャン。二十四才ぐらいの小柄な可愛い娘さんで、おとなしく素朴な感じ。芸能人を気取ったことろがまったくない好感の持てる女性だった。

 

 彼女の事務所は大手で売り出しのキャッチフレーズは「第二の尾崎亜美」だという。事務所一押しのタレントということになる。

 その番組は早朝なのでタレント、ディレクター、作家が前日入りで夜はホテルに泊まるのだが。この彼女は、ホテルが嫌い。一人誰も居ない放送局のソファーで横になっていた。訳を聞くと「霊感が強くて、あのホテルは幽霊が出るの!」と言っていた。

 作詞・作曲もやるアーティストだけあって繊細で感性が鋭いのであろう。

 

 本番前。スタジオ内に二人でいると…。彼女が言った「私、事務所に第二の尾崎亜美って言われてるのよね」「それ、凄いね!」「私は嫌やなの! 私はユーミンになりたいの!」と、はっきりと言った。私は思った「この娘、タダものではないぞ!」。

 おとなしそうな、感じの良い二十歳そこそこの新人が、なかなか言える言葉ではない。よくある新人の野心や虚勢とは違って、その言葉は自信に満ちていた。

 

 彼女が大きな会場でコンサートをやると聞き、スタッフで観に行ったことがある。すると、小さな体なのに声が伸びて歌声が素晴らしい。CD音源は放送で毎週聞いていたが、アカペラでもパワーのある美しい歌声の凄いアーティストである。

 その時、作り立ての曲を披露したのだが、その歌詞はコミカルで可愛いのに「ドキッとする程の毒が」があった。

 

 次の生放送の時。マネージャーさんに「あの曲、インパクトが凄いね!」と言うと「でも、あの曲はCDにしないみたい」と言っていた。スタッフが刺激が強すぎると判断したのだろうか?

 

 朝の番組は、一年程で彼女が卒業してパーソナリティが変わった。

 

 二年後ぐらいだろうか? 私が有楽町のニッポン放送で仕事している時、あるレコード会社の人が「今度、出る! 新曲、これ良いんですよ!」とプロモーションしていた。そして、局内に流れる放送で曲がかかった。なんと!あのFМのミュージシャンだった。その人の名前は「平松愛理」。曲は、あの時、CDにはならなかった「部屋とYシャツと私」だった。この曲は国民的な大ヒットとなった。「私はユーミンになりたいの!」と言ったあの言葉が思い出された。

 

 それから二十五年以上たっただろうか。私が現在構成する、春風亭一之輔師匠のFМ番組「サンデーフリッカーズ」(JFN)のゲストに平松愛理ちゃんがやって来た。

 私は昔マネージャーさんからもらった、昔のノベルティグッズのマフラーをして打ち合わせをすることにした。喜んでくれると思ったのだ。

 

 私はまず「お久しぶりです。795の朝以来ですね」と言うと、平松さんは「はっ? あなた、居ましたっけ?」

 大ショックである。1年も毎週同じスタジオに入って放送したのに、彼女は「ごめんなさい! ディレクターさんとADさんは憶えてるんだけど…。作家って居ましたっけ?」と言っていた。さらにショックである。どうせならディレクターも忘れて欲しかった。

 

 流石は大物ミュージシャン。どうでも良いことは、すぐに忘れてしまうようだ。

 

 それを聞いた、一之輔は大笑い! 「小林さん、存在感無いんですよ! 本当はその番組やってなかったんじゃないですか? 夢でしょう! 夢!」

 そんな訳はない。毎週、浦和まで車で通ったのは間違いない。おかげで車の走行距離が増えたのを憶えている。だって、ノベルティのマフラーがここにあるじゃないか! 

 

 「覚えていてくれなかった、平松さんは、悪びれることもなく、笑っていた。罪のない可愛い笑顔は昔と同じだ」。

 一之輔は言った「私、平松さんみたいな人好きですよ!」私も同感である。

 

 帰りの車を運転する私は、冬の寒さが特に身に染みる気がした。チックショ~!

 

 数年後、一之輔(もはや師匠もつけず)が「サンフリに作家なんか居ましたっけ?」と言ったら絶交である。これは、私の妄想でした。

 

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