放送業界のお話と落研と私的な思い出(瞳尻・黒舟)

「嗚呼!青春の大根梁山泊~東海大学・僕と落研の物語」スピンオフ・エッセイ。放送関係。業界のエピソードと近所の出来事

不思議な縁。春風亭柳朝師匠、一朝師匠、一之輔師匠!

 私はいつも不思議な縁を感じながら生きている。何かがいつも自分にいたづらして楽しんでいるように感じる。電車を乗り間違えると知人に会い、大きな仕事につながったり、初めて訪ねた北海道・札幌の交差点で大学の後輩とすれ違ったりする。

 

 私が後付けで、かってに結び付けている感もあるが、タイトルにある三者との関わりが私には嬉しい。どこか縁を感じるのだ。

 

 私は昭和五十五年に東海大学の落語研究部に入ったのだが、その時、先輩に連れられて、初めて上野・本牧亭へと行った。二つ目の会である。そこで、最初に見たのは春風亭一朝さん(まだ、二つ目なので師匠ではない頃)の「幇間腹」だった。とても、聞きやすく面白くて、私は先輩に「この噺やりたいです」と言った。すると「お前にはまだ無理だ!」と言われてしまった。

 

 昭和五十七年。私が日本テレビの特番「第五回全日本学生落語名人位決定戦」に出場した時。審査員は桂米丸師匠、三遊亭円歌師匠、春風亭柳朝師匠、桂小文枝師匠、演芸評論家の小島貞二さん、と言ったメンバーだった。

 この時、私は「反対車」と言う噺をやったのだが、柳朝師匠が褒めてくれたことを憶えている。しかも、「今日は、誰に一票入れていいか分からないよ!」と、出演者全員を褒めてくれた。素人の落語などアラだらけで見ているのも不快だった筈なのに、なんとも学生に優しい師匠だった。

 

 今、私はFМラジオで春風亭一之輔がパーソナリティを務める「サンデーフリッカーズ」(JFN)と言う日曜朝の番組で作家をやっている。

 実は、この番組が始まる時「落語家でFМの朝の番組は珍しいから、誰か探して欲しい」と頼まれたのだ。

 その時は、明るくやるならフリートークに強い立川笑志師匠か、朝なのでゆっくりと静かに語る入船亭扇辰師匠が良いと思い、推薦した。

 

 すると「年齢が…三十前後でいませんか?」との返事が返って来た。

 三十前後となると、二つ目か前座がほとんどである。名鑑を見たり、落語に詳しい先輩や作家達に相談すると、みんな口を揃えて「一之輔がいい!」と言う。

 実は、この時、私は春風亭一之輔を見たことがなかったのだ。ただ、寄席・末広亭の帰りに、他の客が「この前、一之輔が良かった」と話しているのを聞いたことがある。

 その昔、同じ末広亭の帰り道で客が「喬太郎はいいよ」と言っているのを聞いたことがある。その後、大きく売れたのを私は知っている。

 寄席の帰りの客の評判は「バカにならない」。これが私の印象である。落語通の先輩達も勧める、寄席の客にも評判が良い。そこで、念のため私は落語に詳しくない若手放送作家に電話してみた「すると、一之輔さんは枕のフリートークが面白い」と言う。

 ラジオに最も大事なのはフリート―クである。当時、年齢も三十を少し超えたところだ。それで、一之輔を推薦することにした。

 

 私が一之輔の高座を観たのはラジオが決まってからとなった。多分、直接観ていれば、先輩に聞くことなく推薦しただろう。結果オーライである。

 

 ラジオではシークレット・ゲストで一朝師匠に出て頂くこともあった。本人に内緒なので、私が一朝師匠に直接電話でお願いしたのだ。少しあがって声がうわずってしまった。流石に「初めての本牧亭で「幇間腹」を観ました」とは言えなかったが、私の歴史としては、嬉しい瞬間だった。

 

 大師匠・柳朝、師匠・一朝、弟子の一之輔、と三人が私の思い出の中で繋がった。これは、天のいたずらである。私を褒めてくれた柳朝師匠の様に、私は一之輔師匠をよく褒める。

 芸人は「褒められると芸が止まる」と言う。褒める奴は「敵だ」。私は一番の敵になってしまったのかも知れない。