放送業界のお話と落研と私的な思い出(瞳尻・黒舟)

「嗚呼!青春の大根梁山泊~東海大学・僕と落研の物語」スピンオフ・エッセイ。放送関係。業界のエピソードと近所の出来事

経堂の人情!栄光の風呂付アパートと昇太師匠のマンション!

 私が25才ぐらいの時。放送作家として、やっといくつかの仕事が入って来た。当時はまだ「風呂なし・トイレ共同の四畳半」に住んでいた。

 貧乏学生と怪しい労働者しか住んでいない格安物件だ。玄関を出てすぐがトイレだったので、部屋まで匂いが漂って不快な毎日だった(水洗だが古く匂いがあった)。

 

 そろそろ、引っ越そう! 住んでいた世田谷区経堂駅前の不動産へと行ってみた。職業を聞かれたので「放送作家です」と答えた。すると「あの~!そういう職業の人には貸せないんです」。

 今までの貧乏アパートと違って、風呂付は若いフリー業者に貸せないというのだ。多分、以前に夜逃げした放送作家が居たのではないだろうか?

 

 この時、THE BLUE HEARTSの「ロクデナシ」の唄が脳裏に流れた。この歌詞にある♪「ギター弾きに貸す部屋はねえ!」と言う不動産屋の言葉が、シンクロしたのだ。♪「放送作家に貸す部屋はねえ」。

 

 落ち込んでその日は帰ったが、憧れの風呂付に住むという野望を捨てる訳には行かない。その時、私の収入は同世代の会社員を遥かに超えていたからだ。

 

 翌日。駅前の大きな不動産はやめて、なるべく小さな客が少なそうな不動産を探してみた。すると、農大通りをかなり歩いた外れに、バラックみたいな建物に手書きの物件が張り出されている不動産があった。

 

 「ここなら、相手にしてくれるかも?」根拠もなく、入ってみた。

 

 そこは、お婆さんが一人でやっている不動産屋さんで、雇われ社員が対応する店と違って、とても感じが良かった。

 お婆さんは私の顔を見ると「あなた、顔見れば真面目なのが分かるわ! 公務員でしょう? 分かるの、親戚の子に似てるわ!」

 

 私は今更、放送作家とは言えず「まあ、そんなもんです」と言ってしまった。

 

 「あなた、勉強できるでしょう? いい大学出てるでしょう?」

 「いや、そんなにいい大学でもないです」

 「偉い! 賢い人は謙遜できるのよ!」

 

 すんなりと風呂付・給湯器付きの夢の様な物件を紹介してくれた。

 

 経堂の街の個人経営の優しさは半端ではない。大手と違って個人の裁量で融通がきくのだ。

 

 この物件は玄関前が女子高のテニスコート。金網越しに練習が見える。

 体育祭の前には、組体操などの練習でマイクで「そこ、真面目にやれ~!」と叫ぶ先生の声が大音量で聞こえてくる。

 文化祭の前にはポストに「うるさくなるのですいません」と言う手紙と、女子高文化祭の招待状が入っていた。流石に文化祭は行かなかったが、私は練習の声がまったく気にならない性格。むしろ、先生がどんな怒り方をするかが楽しみだった。

 

 このアパートに引っ越したとたん、仕事が次から次へと入って来たのも驚きだった。占いで言う縁起の良い方角だったのかもしれない。

 調子にのって車を現金で買ってしまった程だ。

 

 ここに、数年住んでいると、春風亭昇太師匠が言った。

 「住むところとを良くすると、いい仕事がはいる! だから、アパートはやめてマンションに引っ越せ!」

 

 それもそうだと、私はマンションに引っ越すことにした。ここは昇太師匠の紹介なので何の審査も無く入居できた。最新のマンションで部屋はまっさら。おかげで、家賃は3倍になった。

 

 すると、どうだろう…。みるみるうちに仕事がラジオ一本に減ってしまった。

 

 余程方角が悪かったのだろうか? 

 しかし、私は「少しうれしかった」。仕事が多すぎて寝られない日々が続いていたからだ。

 貯金もあったので、毎日、今まで行ったことが無い東京近郊の観光地を訪れることにしたのだ。これは、毎日楽しい。一生この生活をしたいと思った程だ(金があればだが)。

 

 週末にラジオのレギュラーが一本あったので、失業ではない。楽しすぎて3年位は、このまま預金で暮らそうと思っていた。

 

 この生活は1年程続いたのだが…。ある日。昔、お世話になった同級の天才放送作家・S」から電話があった「名古屋の番組を一緒にやらないか」と言うのだ。

 またも、私は営業もせずに番組に入ってしまった。

 この番組は、ありがたいことに評判となり、台湾でも放送され、二次使用料までもらえることとなった。

 

 今、思うとあのアパートに居て仕事をやり過ぎていたら体を壊していたのではないだろうか? 昇太師匠の「引っ越せ!」の一言は、私を救う天の声だったと思う。

 

 安い風呂付アパートも快適だったが、あの時の仕事は単価が安く薄利多売だった。マンションに引っ越してからの仕事は、それなりに単価の高いものが続くようになっていたのだ。

 

 今、思うとどちらも「運の良い物件」だったような気がする。

 

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親バカ青春白書・ついに、最終回!

 東海大落研・OBの穴吹一朗(27期・兵枝・ひょうし)君が脚本を担当する、ドラマ「親バカ青春白書」が、ついに最終回なのだそうだ。

 

 このドラマは「娘が好きすぎて同じ大学に入ってしまった父親」の話だ。ムロツヨシの父親がキャンパスライフを謳歌するのが面白い。

 

 今、気づいたのだが…。この「大学に入りなおす」というキーワードは、昔の東海大落研にもあった。兵枝君の何代か先輩に頭下位亭都雷(とうかいてい とらい)という男が居た。

 彼は、廃部寸前の落研を立て直すために、もう一度受験して東海大学に入りなおした男である。

 

 これは「親バカ青春白書」ならぬ「落研バカ青春白書」である。「落研が好きすぎて、留年中退した後、また入学した」のだ。

 

 その努力の末。クラブ廃部を免れた。そして、現在も続いているのである。

 

 「大学にもう一度入る」と言うドラマの発想は、ここにあったのかも知れない? 

 

 話は日大芸術学部落研に飛ぶが…。

 柳家わさび師匠が1年生に入った時。三年生は春風亭一之輔師匠、ただ一人。クラブは低迷の時期だった筈だ。

 

 この時。わさび君の母親は毎回落語会を観に来て、打ち上げまで出ていたそうだ。これは「リアル親バカ青春白書」ではないか?

 このお母さんは落研の部員にも溶け込んでいて、部員の間では「わさびのお母さんなら、ギリギリ〇〇〇できる」と言った部員がいたそうだ。

 

 わさび母は、女性版・ガタロウだったのだ!

 

 落研と親バカは昔から相性が良いようだ。

 

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三遊亭金馬襲名!でふと思い出す!東海大落研のお噺!

 私が東海大学落研部・四年生の時。昭和58年のことだ。一年生に頭下亭宇音宙(とうかいてい うぉんちゅう)君が入部した。

 九州出身で気の弱い痩せた男だったが、芯は強く、上下関係を大事にする東海らしい男だった(彼は「嗚呼!青春の大根梁山泊東海大学・僕と落研の物語~」完全版!(ネット書籍・noteの中で部室で悲惨な目にあっている)是非、お読みください)。

 

 彼は工学部だったと思うが、ある日、部室で私に言った。

 「うちのクラスに金馬さんの息子がいるんですよ!」

 「えっ! 金馬って、あの、三遊亭金馬師匠?」

 「そうなんです!」

 「お前、その同級生、落研に入れろよ! お父さんに顧問になってもらって合宿に呼ぼうぜ! 文化祭も出てもらおう! 大喜利の司会頼んだりして! 息子と共演ってのもいいんじゃないか! 打ち上げは金馬師匠に奢ってもらおう!」

 

 私は思い付きで適当なことを言っていた。

 

 「絶対、そいつをクラブに入れろ! 名前「子供金馬」とか「七光り金馬」とかつけちゃおうぜ!」

 

 数日後。宇音宙君が言った。

 「先輩! 言いにくいんですが…ダメでした! 金馬師匠の息子は、落研はチョット…」と言って入ってくれませんでした。

 

 私は「クラブに入れろ!」と命令したことも忘れていたが、「それは、そうだろう!」と思っていた。

 

 もし、プロになるのなら素人の変なクセが付くと邪魔になるし、プロにならないとしても「落語」で素人の先輩に何か言われるのは嫌やな筈だ。

 

 この時の金馬師匠の息子さんとは、現在の三遊亭金時師匠ではないかと思う。他の息子さんの可能性もあるが、多分、そうである(違ってたらすいません!)。

 

 金時師匠は、2020年9月下席より、父親の大名跡三遊亭金馬を襲名し、父の金馬師匠は金翁と改名すると発表されている。

 

 あの時。もし、金時師匠が落研に入っていたら、我々OBは襲名パーティーに出席することになったのだろうか? 

 

 私は金時師匠と面識はないが、どこかでお会いしたら、東海大時代のことを聞いてみたいと思っている。

 やはり、学生時代から「噺家になる」と決めていたのだろうか? 

 

 五代目・三遊亭金馬襲名! おめでとうございます! 寄席での襲名披露を観に行こうかと思う私である。

 

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有名人の子供達!

 私は、昔から有名人や大物政治家・財界人の子供たちが羨ましいと思っていた。これは田舎者でナマケモノの発想のようだ。

 

 私は子供の頃から、苦労や努力をさけて生きて来た。それだけに、親のコネで何でもできる「若大将シリーズ」の青大将(田中邦衛)の様な人に憧れていた。

 もう少し新しい例では「こち亀」の麗子や中川の様な存在に憧れていたのだ。

 

 放送作家として、大物コメディアンKさんのラジオ番組を担当していた時。新人ディレクターのTさんが居た。彼はとても優秀で臨機応変な対応が出来る人だ。

 まだ、大学を出たてだが、落ち着いた話し方で先輩にも意見を言える人だった。

 

 数か月一緒に仕事をした頃。Tさんはお正月映画として有名な国民的俳優の息子さんだと聞いた。

 

 本人は親の七光りが嫌で、素性を隠して局の入社試験を受けたそうである。彼は実力で入社したかったようだ。

 上司たちは入社式にいきなりお父さんが現れて、皆「はやく言ってくれれば!」と、恐縮したそうだ。

 

 コネに憧れた私とは違い、本当のご子息は親の世話になりたくない様なのだ。

 

 私は番組の打ち上げの時。カラオケボックスでお父さんの映画のテーマ曲を入れて、Tさんに歌わせたことがある。

 Tさんは子供の頃から歌いなれているようで、決まり台詞まで入れて見事に盛り上げてくれた。

 

 この数か月後の事。Tさんが無断で会社を休んだ。番組スタッフは何故だろう?と皆首をかしげていた。

 

 数日後。Tさんの「お父さんが亡くなっていた」との報道があり。日本中の話題となった。近親者だけで埋葬するまでマスコミには未発表だったのだ。

 

 私がTさんにカラオケを歌わせた時。もう、お父さんの容態は悪かった筈だ。その時、私は酔っぱらって「次の映画のロケ地はどこ?」などと、酷い質問までしている。

 当人は笑顔で「次の作品はありません」と、言っていたが、酔った私は何も気づかず「そうなの!」と言っただけだった。

 まったく申し訳ないことを聞いてしまったものだ。

 

話は変わるが、私より後輩の放送作家に、有名な俳優で声優さんの息子Yさんがいる。またもカラオケだが、私がアニメ「〇〇〇三世」のテーマ曲をかってに入れると素直に歌ってくれた。やはり、子供の頃から仲間に唄わされて慣れているそうだ。

 

 このYさんも、父親のことは話したがらない。私なら新しい人に会うたびに「私、〇〇の息子なんです」と言って「七光り」を期待するところだが、やはり、親を名刺代わりにはしたくないのだそうだ。

 

 私の親は専売公社勤務の職工だったが、業界では何の売りにもならないので嫌だった。しかし、有名人のご子息に言わせると「普通で羨ましい」と言うのだ。

 

 別のラジオ番組の話だが、深夜ラジオに私を抜擢してくれたディレクターのHさんの結婚式に呼ばれたことがあった。

 結婚式会場に行って私は驚いてしまった。ステージがあり生バンドの楽器がズラリと並んでいるのだ。

 

 余興に登場したのは、あの、キングトーンズで「グッド・ナイト・ベイビー」を唄っていた。そして、キングトーンズは、Hさんのお爺さんと親しいというのだ。

 

 その後、登場したお爺さんは歌って踊ってスイングしまくり。このお爺さんは、芝居や映画のモデルにもなった伝説のミュージシャンだった。

 

 格好良すぎるぜ!Hさん!

 

 Hさんは、そんな家系の事は私には一言も言ったことがなかった。パーソナリティも含めてよく六本木などで飲んでいたが、まったく、そぶりをみせなかったのだ。

 

 やっぱり、本当に家系が良い人は「自分では言いたくない」のだと思う。

 

 そう言えば、いつも奇跡を起こす女性放送作家のAさんも、ある文豪Мの親戚だが、分かったのは何年も仕事した後だった(ブログを遡ってお読みください)。

 

 それでも、私は生まれ変わったら有名人や政治家・財界人の家系に生まれたい! と、今でも思っている。

 

 「親のコネ使ってみて~!」「七光りは嫌や!なんて言ってみて~!」「楽して暮らして~!」

 

 凡人の心の叫びである。

 

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